Small Talk 2

旅の記録 + ちょこっと日常のあれこれ を綴ります

旧満州旅行:8日目=最終日(大連) 

2017/09/17
Sun. 22:56

【旧満州旅行 : 8日目=最終日(大連)】


旅順から大連に戻り、大連現代博物館へ。
大連の歴史を取り上げた博物館で、他の中国の博物館とは異なり、日本統治時代についても中立的な展示がなされている。大連には日本企業も多く進出してきたから???
こちらの写真は、日本帝国時代の大連港の様子。ラスト・エンペラー溥儀をはじめ、たくさんの人々を見送り迎えた半円形の待合室は、今はもう取り壊されてしまっている。
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満鉄本社の博物館も見学。
残念ながら館内は撮影禁止だったのだけれども、パネルを用いて満鉄の歴史が紹介されていた。おみやげもの屋も充実していて、満鉄のマークの入った食器(グラス、カップ&ソーサー)や大連切子などが売られていた。
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続いては旧ヤマトホテル(現・大連賓館)の見学。
現在も国営ホテルとして使われており、迎賓館は政府専用の会議室になっている(写真撮影は禁止)。
ヤマトホテルが持っているお宝(?)が展示されている陳列室もあり、樹齢100年以上の白檀から作られた球形の彫り物や、銅製の置時計などが販売されていた。
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旧ヤマトホテルが面している中山広場のまわりには、ロシア、日本統治時代の近代建築がたくさん残されていて、大連観光のひとつの見どころになっている。
ヤマトホテルの正面に建つのは、旧 横浜正金銀行大連支店(↓左)。コリント式オーダーが並ぶルネサンス様式の旧 朝鮮銀行大連支店(↓右)。
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こちらのゴシック様式の建物は、関東都督府民政部の下で大連を管轄した行政機関、旧 大連民政署(↓左)。京都祇園祭の山車をイメージしたとされる塔屋が特徴的なのは、旧 大連市役所(↓右)。
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ms-d8-42.jpgこちら(→)が1940年当時の中山広場。
日本統治時代は大広場(ロシア時代はニコラヤフ広場)と呼ばれていたとのこと。ロシア統治時代の都市計画を引き継ぎ、この広場の周囲は大連の中心地として発展した。日本ではなかなかできない街づくり、当時の人はワクワクしたのではないだろうか。

この後、日本人街のひとつと言われる南山エリアを散策。
日本人街といっても、日本統治時代の建物はもう老朽化が進みほとんど残っていなかった。

大連の町には、まだ路面電車が残っている(↓)。近代的な車両とレトロな車両の2種類があり、こちらはレトロなほう。現地ガイドは、「渋滞がひどくなるから路面電車はなくしてほしい」と話していた。
道路には、満鉄マークの入ったマンホールも(↓右)。大連のほか、瀋陽や長春にも残っているとのこと(瀋陽では夜の散歩中にいくつか見つけることができた)。

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この日の夕食は、旧ヤマトホテル=大連賓館にて(↓)、ちょっぴりゴージャスに。
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ms-d8-40.jpgms-d8-41.jpg食後の散策は、タクシーを使って大連港へ行ってみた。タクシー料金が安くてびっくり。初乗り(たぶん2km弱)10元ほどだった。

港の近くに、税関らしき堂々たる建物を発見。ライトアップがピンク色でちょっとアンバランスな感じだけれど、ドアのレリーフが凝っていて、なかなか可愛らしかった。

8日間に及んだ旧満州旅行も、観光・見学は今日で終了(明日は早朝のフライトで帰国するのみ)。
参加前の期待どおり、いろいろと勉強になった旅でした。読もうと思って読めていない本もたくさんあるので、引き続き学びは続けていこうと思います。

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旧満州旅行:8日目(旅順) 

2017/09/17
Sun. 12:56

【旧満州旅行 : 8日目(旅順)】


旅順観光は、東鶏冠山北堡塁からスタート。
ここは1900~1904年に建設されたロシア軍の防御要塞で、日露戦争において重要な役割を果たした場所。ガイドブックによれば、1904年8月19日から24日の第1回旅順総攻撃では攻撃した日本軍が全滅。その後トンネルを掘り地下から爆破、肉弾戦に持ち込み12月18日に日本軍が多数の死者を出しつつも占領に成功したとのこと。
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日本軍が爆破したとされる場所(↓右)。
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こちらは日本軍が1916年に造った戦績記念碑(↓左)と、ロシア軍の宿舎(↓右)。2階建て、それも体の大きいロシア人だからか、天井が高い。
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印象的だったのは、日本統治時代に大連近郊に暮らす日本人も、この場所を観光地(課外学習先?)として、訪れていたということ。その当時に修復された跡が残っていた。

続いて、日露刑務所旧址へ。
もともとはロシアが建てた監獄、その後日本が使用した。赤いレンガ部分が日本が増築したところ。
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この監獄は、伊藤博文を暗殺した安重根が拘留されていたところで、日本語のほかハングルでの説明書きも多かった。ガイドいわく、韓国からの観光客が訪れることも多いらしい。
網走刑務所などにも見られる看守台(↓右)。放射状に廊下が延びていて、1か所から多方向を見渡すことができる。
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安重根が処刑された、絞首刑場も残っていた(↓)。
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次に訪れたのは、日露戦争の激戦地として知られる二〇三高地
坂道を10分弱ほど上ると、高地に散乱していた砲弾を集めて造られた、弾丸の形をした記念塔(↓右)に到着。塔には、乃木希典の筆による、爾霊山(にれいざん)も文字が。
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ロシア軍が使っていた150ミリメートルキャノン砲と、旅順港が見渡せる場所に設置された重砲。
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確かにここからは旅順港がよく見え、旅順を攻略するためにはこの場所をおさえる必要があったのだと実感できた。
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乃木希典の息子(次男)もここで戦死していて、彼のための碑がひっそりと建てられていた。
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二〇三高地の陥落を受け、1905年1月に旅順総司令官ステッセル将軍から降伏の申し入れがあり、日本がこれを受け入れ日露戦争は終結。ステッセル将軍と乃木希典が会見したのが、ここ水師営会見所(↓)。
現在の建物は、1996年に当時の資料に基づき再建されたもの。中にはステッセル将軍がこの場所へ向かう写真や、乃木希典との写真なども展示されていた。
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これらを見て思ったのは、日露戦争の時代には、相手の将軍を個として称え尊重するという文化があったのだなぁ、ということ。そして武器・銃器はこの後、日中戦争から太平洋戦争にかけて大幅に威力がアップ、進化したのだということ。
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現地ガイドに、中国東北地方の人たちは、日露戦争をどう思っているか聞いてみたところ、他国同士が戦った戦争であまり興味はない、中国を戦場にした両国ともに良い感情はもっていない、とのことだった。
日露戦争で、もし日本が負けていたら・・・歴史に「タラレバ」はないけれど、満洲国は建国されることはなく、中国東北地方はロシアのものになっていたのかもしいれない。

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【旧満州旅行 : 7日目(大連/大連経済技術開発区&旧ロシア人街)】


大連到着後、大連経済技術開発区へ。
大連市の北約20㎞ほどに位置する、1984年に設立された工業団地。工業区、商業区、生活区に分けられる、いわばひとつの都市。工業区には日本企業も数多く進出している(外資系企業の1/3を占めるとのこと)。

この地区を見渡す展望台があるとのことで、そちらに向かってもらう。展望台から眺める景色は圧巻。整然とした大都市が広がっていた。
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煙が出ていると(昔ながらの)工業団地という感じもするけれど、最近はIT関連企業の進出も多いのだとか。
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夕食後、少し時間があったので、旧ロシア人街を散策(↓)。
大連は、1898年に帝政ロシアが清朝から遼東半島南部を租借し、不凍港としてロシア人がここに町を築くまで、小さな漁村にすぎなかった。大連という町の名前も、ロシア語のダーリニー=遠方の意=が由来。
日露戦争に日本が勝利するまで、ここはロシア人が開発を手掛けており、ロシア人が多く住んでいたとされるのがこの地。
現在、ここにロシア人はいないが、ロシア風の建物が復元され、ちょっとしたテーマパークっぽくなっている。
こちらの立派な建物(↓右)は、ロシア統治時代はダーリニー市役所として使われていた建物。その後、日本統治時代は満鉄本社やヤマトホテルとしても使われたことがあるという。
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旧ロシア人街で、トランプ?花札?をする面々を発見。治安上はあまりよろしくなさそうだけれども、経済技術開発区の発展ぶりに圧倒されていたこともあり、こんなところに古き悪しき(?)中国を見てなんとなく安心(?)してしまった。
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明日は、旅順にも足を延ばします。

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旧満州旅行:7日目(丹東) 

2017/09/16
Sat. 14:14

【旧満州旅行 : 7日目(丹東)】


ms-d7-1.jpgms-d7-2.jpg滞在したホテルは丹東の駅からすぐのところにあり、このホテルから北朝鮮へのツアーが催行されている模様。
中国人が北朝鮮に行くのは、パスポートさえあれば簡単なようだ。中国のように国土が広いと、「国境」自体が珍しいと現地ガイドは話していて、けっこう観光客も訪れるらしい。

丹東を流れる鴨緑江が北朝鮮との国境。この狭い川幅の向こうはなんと北朝鮮、新義州という町。
通常、河川を国教とする場合、川幅の中央を国教とすることが多いのだけれど、ここは互いの対岸が国境線になっている、つまり、川は両国の共有になっている。
船では両国民が簡単に接触できるので、脱北なんか簡単にできちゃうんじゃないかなーと思った(そのあと逃げ切れないのかもしれないけれど・・・)。さらに、現地ガイドいわく、昔は冬には鴨緑江が全面凍ったので、スケートをして遊ぶこともできたのだとか。

北朝鮮側は農村という感じだが、その対岸の中国側は、丹東新区といって絶賛開発中のエリア(↓右)。
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川が国境だと思っていたら、川沿いではない国境線も。こちらのゲートの向こうは、北朝鮮と中国が共同で開発しようとしていた黄金坪という場所。ただし、この計画を進めていた北朝鮮のNo.2、張成沢が甥の金正恩に処刑されてしまったために、計画がとん挫してしまっている。
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「北朝鮮に食べ物を投げるな」の看板があるけれど、春の田植えの時期になると、北朝鮮側での田植えの光景が見られるとのことで、ここを訪れる観光客もいるのだとか。
国境付近の警備はユルユルで、まったく緊迫した感じはしなかった。意外といえば意外、ただ中国と北朝鮮の関係が悪くないからこんなに長閑(?)なのだろう。北朝鮮情勢が騒がしいけれど、対北朝鮮という点でいえば、ここ丹東はもっとも安全な場所のひとつかもしれない。

続いて訪れたのは、新鴨緑江大橋(↓)。
橋自体はできているけれども、北朝鮮側の事情により未開通のまま。
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この近くに出ていた露店で、北朝鮮のお金のセットを購入(↓右)。
北朝鮮は頻繁に紙幣のデザインが変わるらしい。旧紙幣を使えなくすることによって、タンス預金=個人の蓄財を防ぐことができるから。北朝鮮は、やることが徹底しているなぁ・・・
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この日は土曜日だったので、あちこちで結婚式が開かれていた。花嫁を迎えに行くリムジンはピンク色の風船で飾られ、ホテルのゲートも競い合うようにしてデコレーションされ、色とりどりの煙が出る爆竹もバンバン鳴って、とても賑やかだった。
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40分ほどの鴨緑江の遊覧船クルーズを楽しむ。
こちら(↓右)は、この後訪れる鴨緑江断橋。1909~1911年に建設された鉄道橋だったが、1950年、朝鮮戦争(中国では抗美援朝という)のさなか、アメリカ軍の空爆により断絶されてしまったもの。
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遊覧船の左右で、こんなに風景が違う。。。。北朝鮮の人たちは、この対岸の中国の発展ぶりを見てどんな風に思っているのだろう?
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アサリか何かを獲っている北朝鮮のボート???
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クルーズ後、鴨緑江断橋へ。ここは実際に断絶された場所まで歩くことができ、人気の観光スポットになっている。
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破壊される前は、真ん中の部分が回転する仕組みになっており、その構造がパネルで紹介されていた。
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断橋の先端部分。パラソルの下には望遠鏡(有料)があり、対岸の北朝鮮を見ることができるようだった。
ここには国旗がたくさん飾られていたのが印象的。写真撮影をしたら必ず写り込むことを狙っているのだろう。
この断橋の隣にある、対岸までかかっている橋は、中朝友宜橋。現在ピョンヤンまでの鉄道が走っているという。
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朝鮮との国境は、ここを実際に訪れてみないとわからないことも多く、新しい発見があってとても面白かった。
もし北朝鮮という国がなくなって韓国と統一などされたら、米軍がすぐそばに駐留できてしまうことになるので、中国はそんなことを絶対に望まないだろう。南北に分断されてしまった朝鮮半島は気の毒だとも思うけれど、この状況はしばらくは(少なくともあと50年くらいは)変わらないんじゃないかな。

丹東での滞在時間は短く、以上で観光終了。朝鮮戦争に関する記念館があるようだったので、そこはちょっと見てみたかったな・・・

この後、丹東駅から高速鉄道で大連へ。

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旧満州旅行:6日目(撫順) 

2017/09/15
Fri. 22:14

【旧満州旅行 : 6日目(撫順)】


瀋陽からバスで撫順へ。
最初に訪れたのは、撫順の市街地の南にある平頂山惨案遺址紀念館へ。
中国側の説明によれば、ここは、撫順炭鉱が抗日軍に襲撃された見せしめとして、周辺の村人およそ3,000人を虐殺し、そのあとガソリンをまいて火を放ち、その証拠を隠蔽したとされる跡地に建てられた記念館。
豊かになった中国が、最近また立派な施設を造った模様。
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満鉄にとってここ撫順の炭鉱は重要な財源であり、その開発も積極的におこなっていた。
こちらは炭鉱に労働者として連れてこられた中国人たちが暮らしていたバラックと、炭鉱を管理していた日本人の住宅の写真(↓)とのこと。
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ガイドの説明によれば、この虐殺事件は、1932年9月16日、「写真を撮るから集まるように」と村人が集められ、赤い布の覆いがとられると、機関銃を持った日本軍や警察が、次々と村人を射殺していった。被害者はおよそ3,000人。その事実を隠すため、その後亡骸は集められ燃やされたのだという。
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写真撮影禁止のエリアには、大量に発見された遺骨が展示されていた。中には小さな子どもと見られるものも。
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そもそもこの周辺の村に3,000人もの人はいなかったとも言われており、写真撮影でその人数を集めるというのも無理があり、軍や警察が組織的に関与したのかどうかも詳細は不明ではあれど、何らかの形での大量殺人はあったことは事実なのかな、と思った。
記念館の中で、大学生くらいの若い中国人に、「この事件についてどう思うか?」と(英語で)質問され、回答に困った。
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たまたま訪れたのが9月15日で、事件のあった日の前日に当たるため、明日の式典のリハーサルがおこなわれていた(↓左)。あまりに緊張感がないリハーサルで、本番大丈夫か?と要らぬ心配をしてしまうほど。こういうところ、北朝鮮だったらピシッとしてそう。

記念館の周囲には、生存者がジャーナリストに語ったといわれるこの事件の内容を刻んだ石碑(↓右)がたくさん並んでいた。
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生存者(か、被害にあったとされる人の遺族)が、この事件に関し日本国政府を訴えていて裁判になっていることも、記念館では紹介されていた。日本でも報道とかされたのかな・・・日中国家間の賠償は終わっているので、門前払いになっている気もするけれど。

日中両国がこの事件について共通の歴史認識をもつことは、きっとこの先もできないのだろうなぁ・・・


続いて訪れたのは、撫順戦犯管理所旧址
もともとは日本軍が抗日中国人を収容するために使っていた撫順監獄で、戦後は日本人戦犯、満洲国に関与した戦犯、そして国民党の戦犯などが収監された場所。ラスト・エンペラー溥儀もここで「改造」されたことで有名。
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この収容所の方針は、「罪を恨んで人を恨まず、人を戒め人を救う」とのことで、収容された戦犯たちも「人間」として扱われ、食事を与えられ、施設内には病院もあり治療が受けられたとのこと。シベリア抑留の過酷さとは天と地ほどの差があったといえるのではないだろうか。
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「鬼」として描かれた日本人(↓左)と、罪を認める告白をしたというステージ(↓右)。
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こちらは病院(↓)。張作霖の仲間で、のちに満洲国の首相となった張景恵や、溥儀も使ったというベッドには、その案内札が建てられていた。ちなみに、張景恵はここで病死している。
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ラスト・エンペラーが収容されていたこともあり、溥儀の展示も充実していた。
こちら(↓左)は各国の王や皇帝がどのような死に方をしたのか、を紹介したパネル。たとえばフランスのルイ16世はギロチンで処刑、と書いてあった(中国語なので正確にはわからないけど)。
ルイ16世を引き合いに出すことで、この戦犯管理署を笑顔で(?↓右)出た後、市中の一生活者として亡くなった”ラスト・エンペラー”溥儀は素晴らしい(=中国共産党は寛容である)というメッセージが際立つ。
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溥儀が書いた「わが半生」。ずいぶん前に読んだきり、今回の旅行を終えた後もう一度読み直したら、感じ方がぜんぜん違うのかもしれない。
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この後、瀋陽に戻り、高速鉄道に乗って北朝鮮との国境の町、丹東へ。
駅前には毛先生がいらっしゃいました!
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(7日目)へ続く。

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