Small Talk 2

旅の記録 + ちょこっと日常のあれこれ を綴ります

旧満州旅行:5日目(瀋陽/故宮など) 

2017/09/14
Thu. 22:19

【旧満州旅行 : 5日目(瀋陽/故宮など】


瀋陽の故宮は、清の前身であった後金の初代皇帝ヌルハチが建設を始めた宮殿。山海関を越えて北京入りし紫禁城に宮殿を移した後も、行宮として歴代の清の皇帝はここに立ち寄ったという。
八角形の建物は大政殿。皇帝が式典をおこなう場所で、第3代順治帝の即位式もここでおこなわれたのだという。この大政殿の周囲には十王亭(八旗亭)が並んでいる。
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こちら(↓左)は、四庫全書を収容するために建てられた文そ閣。北京への遷都後に造られたもの。
第2代皇帝ホンタイジと皇后がくらした清寧宮(↓右)。内部はオンドルになっていた。
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ms-d5-33.jpg続いて訪れたのは、奉天派の軍閥、張作霖と張学良の官邸兼私邸(張氏帥博物館)(↓)。
現地ガイドに聞いたところ、現代の中国東北地方の人たちの間では、一般的に言えば、張学良は人気があり(国共合作の立役者だし)、張作霖は人気がない(悪者扱い)なのだという。
評価されている証なのか、「張学良将軍」の銅像(←)も建てられていた。

メインの建物(大青楼↓)には、プライベートな寝室のほか、執務室や宴会場などがあった。学歴はなかった張作霖だが、字を書くのは好きだったらしく、彼の書が至る所に飾られていた(ガイドは下手くそだと笑っていたが・・・)。

父・張作霖を亡くした張学良が、父の腹心の部下で関東軍とも近かった楊宇霆と常蔭槐を銃殺した(楊常事件)のもこの私邸だったとのことで、そのシーンが再現された展示もなされていた。ガイドの説明によれば、張学良が権力を掌握するためにこの2人を抹殺すべしとアドバイスしたのは張学良の妻(父が決めた姉さん女房)で、張学良はこの妻を非常に恐れていたのだとか。

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こちらは小青楼(↓)。
1928年6月4日、蒋介石の率いる北伐軍との決戦を断念して満洲へ引き上げる途上、関東軍によって乗車していた列車が爆破され、瀕死の重傷を負った張作霖が運びこまれたところでもある。
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ms-d5-34.jpgこちらは、台湾での幽閉生活から最期をむかえたハワイでの生活まで、ずっと張学良と一緒にいた趙一荻のための家(→)。父・張作霖が彼女を家の敷地内に入れることを拒んだため、敷地の外に彼女のための家が建てられたとのこと。

瀋陽の観光地としては、ヌルハチが眠る福陵やホンタイジが眠る昭陵などもあるものの、今回の旅行のメインテーマからは少し外れるため訪れず、以上で瀋陽の観光は終了。

夕食後、少し時間があったので、ツアー参加者が企画した街歩きツアー(?)に参加。ホテル近くの瀋陽北駅から地下鉄に乗り、繁華街をふらふら歩いてみた。
地下鉄は近代的でピカピカ(↓左)。切符はプラスチックのカードで再利用が可能なものだった。
繁華街のメインストリートは歩行者天国になっていて、その歩行者天国の道の真ん中に、電話ボックスならぬカラオケボックスが並んでいてびっくり!2人くらいは入れる大きさのボックスで、カーテンで仕切って外から顔は見えないしくみ。防音はけっこうしっかりしていて、ボックスの近くに寄ってみないと歌声は聞こえてこなかった。
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中山広場の向いの旧奉天ヤマトホテル(↓)ものぞいてみた。
建物内の階段がアールヌーヴォー様式(?)で、とってもステキだった。この写真では、そのステキさはあまり伝わらないけれど・・・
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中山広場の真ん中にたつ毛沢東の像(↓左)と、中山広場に面して建つ歴史ある(おそらく満洲帝国時代からの)建物(↓右)。
昔、中国を旅したことのある人いわく、毛沢東の像の数はものすごく減っている、と。
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明日は、撫順を訪れます。

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【旧満州旅行 : 5日目(瀋陽/九・一八歴史博物館&中国工業博物館)】


瀋陽は遼寧省の省都。これまで訪れてきたハルビン、長春とは異なり、清朝の始祖ヌルハチが都を置いた歴史ある町。
他方で重工業で発展した(6日目に訪れる撫順炭鉱に近いことも一因だろう)大都市でもある。

瀋陽で滞在したホテルは北駅(↓左)の近くで、瀋陽の金融街にあったこともあり、高層ビルが林立(↓右)。
大都市なので、もっと排気ガスがすごくて空気が悪いのでは?と思っていたけれど、気になるほどではなかった。
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まず訪れたのは九・一八歴史博物館(↓)。
九・一八事変とは、「柳条湖事件」のこと。1931年9月18日、関東軍が奉天駅から北へ10㎞離れた満州鉄道の線路を爆破した事件で、これが関東軍による中国東北部支配のきっかけとなった。
日本では日中戦争は1937年の盧溝橋事件から始まるとの認識が一般的だけれども、中国での抗日戦争はこの九・一八事変から始まるという位置づけ。
カレンダーの形をした巨大な建物は旧館で現在は使われていないが、その大きさからしてもインパクト大。
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主な展示品については、日本語での説明書きも書かれているものが多く、入館すると最初に目に入るモニュメントには、次のような言葉が書かれていた。
「1931年9月18日は、中華民族の国辱の日である。
中国人民はこの日を未来永劫忘れ得ぬ日として記憶することを誓う」


こちらは、満洲国建国の詔と、溥儀の即位式の様子を再現したジオラマ(↓)。
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ms-d5-6.jpg世界遺産登録を目指している七三一部隊の陳列館とは異なり、こちらの展示は目を覆いたくなるようなえげつないものも少なくなかった。

こちらの博物館の開館は、1999年9月18日。
反日政策をとった江沢民国家主席の時代でもあり、中国もお金持ちになってこういう立派な箱モノも作ることができるようになった時代、いよいよ中国が日本を抜いてアジアの盟主の座に返り咲くことが見えてきていた時代。
日本が中国でおこなったことが酷ければ酷いほど、その日本軍に勝った中国(共産党)は素晴らしいという理屈で、日本叩きがより激しくなったのかもしれない。

↓左 : 抗日戦線で戦った兵士たちの処刑
↓右 : 炭鉱で強制労働されられる中国人労働者

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1972年の日中国交正常化についても触れられていて、中国と日本はともに平和な社会のために手を取り合ったにもかかわらず、
靖国参拝を取り上げて最近の日本は右傾化している、
中国はアジアの盟主として、日本の右傾化を止めなければならない、そんなことも書かれていた。
そして、中国が日本に侵略されたのは当時の中国(清朝)が弱かったからだ、だから(他国に侵略されないために、もう二度あんなひどい目に遭わされないように)中国は強くあらねばならない、そんなメッセージも伝えられていたように感じた。
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ジオラマがたくさんあったこともあり、子どもたちが課外学習にたくさん訪れていた。展示の内容をどれだけわかっているかは疑問だけれども、これが反日感情のきっかけになってしまうかもしれないと思うと複雑な気持ち。
そして博物館の出口には、「共産党の入党の誓い」が(↓右)。
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九・一八歴史博物館を見て、その視点はなかったなと気づかされたのは、日本の支配で土地を追われた中国人たちが少なくなかったのだということ。そもそもの土地が広く、東北地方の人口密度も高くはなかったとはいえ。。。

次に訪れたのは、中国工業博物館
満洲国時代の1933年ごろから開発が始まった鉄西区にあり、当時は十数社の鉄工所・機械製作所の工場があったのだという。
戦後、その工場を受け継いだ中国は、ここを瀋陽鋳造工場として発展させ、2005年まで稼働していたとのこと。
満洲国時代にここがどの程度開発されていたのかは調べていないけれど、少なくともここは空襲を受けることもなく、(時間はかかったかもしれないけれど)中国の発展に役立ったのだと思うと、ちょっとホッとできる。

通常の観光コースには入らない博物館なので、観光ガイドもきちんと説明できず、もちろん日本語の解説もなく、かなり消化不良。
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自動車の歴史を紹介した展示などもあった。
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広い博物館で、どこをじっくり見てよいかもよくわからなかったのだけれど、展示が充実しているのは「鉄西館」というところで、中国の重工業の歩みが紹介されていた。もちろん、今の共産党からすると汚点でしかないと思われる「大躍進」政策については一切触れられておらず、他方で鄧小平氏の写真は大きく飾ってあった・・・わかりやすい。

今の中国の若い人たちは、大躍進や文化大革命のことを学校で習っているのだろう?

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旧満州旅行:4日目(長春) 

2017/09/13
Wed. 20:54

【旧満州旅行 : 4日目 (長春)】


本日は、長春の観光。
長春は吉林省の省都で、満洲国時代は首都「新京」。その時代に計画的な都市づくりがなされたという。
長春観光のハイライトは、偽満皇宮博物院。中国共産党は、満洲国を正式な国家として認めていないので、常に「偽」の文字が頭につく。

ms-d4-1.jpg清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀が、満洲国の皇帝として1932年から1945年まで過ごした宮殿。
もともとは塩の専売公社の建物で、急遽、仮の宮殿として改築したもの。本宮殿の建設は進めたものの、戦争による物資不足などが原因で、本宮殿の建設は中止され、完成することはなかった。

ms-d4-0.jpg入口の門に大きく描かれていたのは、蘭(西洋の蘭ではなく、フジバカマという東洋の花)をイメージした満洲国の国章
5枚の花弁は、日本(大和)、満州、朝鮮、漢、蒙古の5つの民族を表していて、”五族協和”の建国理念がここにも示されていた。

博物院の入口は、興運門(↓)。
門をくぐって振り返ると、時計の針は9時10分を指したままで止まっている。この時刻は、日本の敗戦間際(1945年8月10日?11日?)に日本へ亡命すべく溥儀一行がこの宮殿を去った時刻なのだという。
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門を超えてすぐのところにあったのが、暢春軒(↓)。
溥儀の妹たちが暮らしたところで、寝室や応接室などがあった。溥儀の実父が訪ねてきた時にもここに滞在したとのこと。
ちなみに、この博物院に展示されている家具はほぼほぼ全てレプリカで、本物は文化大革命時にすべて失われてしまったらしい。
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こちらの建物は、絹熙楼(↓左)。
建物の前には、反日政策をとった江沢民(1993~2003年の国家主席)の筆による「勿忘 九・一八(9・18を忘れるなかれ)」の碑が。
絹熙楼は溥儀とその妻たちのプライベートな空間で、1階は溥儀が最も愛したとされる第3夫人の譚玉齢の住まい(↓右は譚玉齢の応接室)になっていて、
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2階は溥儀と皇后の婉容の住まいになっていた。
溥儀の理髪室(↓左)と、アヘン中毒だった婉容のアヘンの吸引室(↓右)。
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続いての建物は、勤民楼(↓左)。
勤民楼は公式行事などが行われたパブリックスペースで、こちら(↓右)が溥儀の皇帝即位式がおこなわれた広間と玉座
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仏間(↓左)やダイニングルーム(↓右)などもあった。西洋式の教育を受けた溥儀は、このダイニングルームには楽団用の小部屋も作らせたのだという。
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溥儀たちが利用していたという自動車(↓左)。これはレプリカでなくて本物なのかなぁ????
こちらの黄色い瓦屋根の建物は、1938年に日本人によって設計され建設された同徳殿(↓右)。
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同徳殿の見どころは、映画『ラスト・エンペラー』のロケにも使われたロビー。
純金が用いられ、1つ1トンにも及ぶ豪華なシャンデリアが4つある。
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以上で、博物院の観光は終了。
ツアー参加者の一人が、「たしかに立派な建物かもしれないけれど、紫禁城と比べたら犬小屋みたいなものだよねー。屈辱だったんじゃない?」と一言。ワタクシは紫禁城を訪れたことはないけれど、確かにそれと比べたら犬小屋どころか鳥小屋くらいかも。ただ、紫禁城での皇帝としての生活も、何をするにも誰かがいて、いろいろ大変だったような気もする。

この後、旧満洲国時代の官公庁街を散策。
松並木のまっすぐな道路沿いに建物が並んでいた。
威厳を示すために堂々とした建物が多かったけれど、これらの建物は遺産として今後も保存されていくのだろうか。それとも取り壊されていくのだろうか。
こちらの建物(↓左)は偽満洲国交通部旧址(現・吉林大学公共衛生学院)、(↓右)は旧関東軍司令官官邸(現・松苑賓館=ホテル)。
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ms-d4-16.jpg長春駅から、また高速鉄道に乗って瀋陽へ。
長春駅の広い待合室には、軍専用(優先?)の待合スペースも設けられていた。
ms-d4-17.jpg瀋陽駅には1時間半ほどで到着。
瀋陽駅(←)は、東京駅を模したデザインだといわれているけれど???

明日は、この旅のもうひとつのハイライト、九・一八事変陳列館を訪れます。

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旧満州旅行:3日目(ハルビン → 長春) 

2017/09/12
Tue. 22:46

【旧満州旅行 : 3日目(ハルビン → 長春)】


ms-d3-19.jpg七三一部隊の見学の後はハルビンに戻り、東北烈士記念館へ。
ここは、抗日戦争と国民党との解放戦争で命を落とした東北地方の革命人士を記念して作られた記念館。
満州国時代に関東軍の憲兵司令部があった建物が利用されている(←)。

ms-d3-20.jpgこちら(→)は、日本の統治時代の遊郭と遊女たちの写真。
この写真はここだけでなく、他の博物館(どこだったか忘れたけど)でも展示されていて、日本人統治時代のひとつの負の象徴になっているのかな、とも思った・・・お隣の国の話があるから、深読みしすぎなのかもしれないけれど。

革命人士がいかに日本軍に抵抗したか、ということを強調するためなのか、それとも反日感情をあおるためなのか、その両方なのか、日本軍が抵抗する中国人に対していかに残虐だったか、という展示が多かった。
こちら(↓)は、拷問の道具と絞首刑の場所。もともとの建物が憲兵司令部なので、実際に使用されていたものなのかもしれない。。。。
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趙一曼という、反満抗日ゲリラに参加した女性の英雄の展示も充実していた。彼女は日本軍につかまり拷問を受け、治療を受けていた病院から逃げ出して、戦い続けたのだという。彼女の遺書には、息子に母(自分)が何のために戦っていたのかその姿勢を忘れないで欲しいと書かれていたとのこと。

抗日部隊の指揮官として活躍した趙尚志を紹介したパネル(↓右)。1942年に34歳の若さで亡くなっている。
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続いては、南崗展覧館へ。
もともとは東清鉄道の社員のための宿舎だった洋館で、ハルビンの歴史が紹介されていた。
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ms-d3-28.jpgこれでハルビンの観光は終了。ハルビン西駅から鉄道、中国版の高速鉄道で長春へ。
中国の高速鉄道に乗るときは、駅では荷物のセキュリティチェックがあり、さらにパスポート提示が求められた。指定席は記名式。これは外国人だからなのか、それとも全乗客がそうなのか?

駅は機能的に造られていて、乗車フロアと後者フロアが分かれている。
空港と同じで、乗車フロアには広い待合室があり、時間になったらホーム(ゲート)ごとに改札が開き、ホームに降りて乗車する、というシステム。

外観も車内の様子も新幹線そっくり。
でも、各車両にスーツケースなど大きな荷物多くスペースがあるところは、こちらのほうが進んでいるというか、使い勝手が良い。
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長春には1時間ほどで到着。夕食は、満州料理をいただく。
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味付けは少々濃いめ、川魚の煮つけがインパクト大。紫っぽい穀物は、コーリャン。昔は貧しい人が食べていたけれど、最近は栄養価が高くヘルシーだということで、コーリャンが見直されているのだとか。
黄色い饅頭のようなものは、中には東北地方でよく食べられているという、白菜を発酵させた漬物が入っている。この漬物、かなり酸味が強く独特な味だった。
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4日目へ続く。

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【旧満州旅行 : 3日目 (ハルビン/侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館・遺址)】


3日目は、この旅のハイライトのひとつ、侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館・遺址へ。
通常は45分くらいのところ、この日はなぜか渋滞に巻き込まれてしまい、ハルビンのホテルから1時間半以上かかって到着。
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七三一部隊の正式名称は、関東軍防疫給水部石井四郎を隊長に、1936年から1945年(終戦直前)まで、細菌戦のための研究を秘密裏に行っていたとされる。
まずは陳列館(←)の見学。

ms-d3-1.jpgこの陳列館は2015年8月15日(意味深い)にオープンした新しい記念館で、これにより真実が明らかになるという意味を込め、フライトレコーダーの形をしている(←)。

とても立派な陳列館ではあるけれど、入場は無料。多くの人に訪れてもらいたいということなのだろう。
音声ガイドもあり(ただし自分で番号を押すタイプでなく、ある場所に来たら音声が流れるタイプでかなり使い勝手は悪かった)、日本語にも対応。

館内に入ると、いきなり「非人道的な残虐行為」という強烈な言葉が飛び込んでくる(→)。
中国語、英語、日本語、ハングル、モンゴル語、そしてロシア語での案内。(モンゴルって、キリル文字使ってたのね~。モンゴル行ったことあるくせに全然記憶になかったわ(汗))。

展示はまず、七三一部隊とは何か、その組織の説明から始まる。
この組織図のトップには、「天皇」と書かれていて、その下に陸軍省参謀本部、その下に関東軍があり、その下にこの七三一部隊の名前がある。
そして七三一部隊のトップ、石井四郎の写真も。この陳列館の解説によると、石井四郎は敗戦後の責任追及・裁判から逃げるために自分の葬式をあげさせた、とのこと。これが事実かどうかは確認してはいないけれど、最終的には石井四郎は米国にこの七三一部隊での詳細な研究成果をアメリカに渡すことで訴追を免れ、1959年に他界している。

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在りし日の七三一部隊の様子(↓)。1945年8月9日のソ連軍の侵攻直後、証拠隠滅のため爆破された。
人体実験の犠牲となった「マルタ(丸太)」と呼ばれた人々(中国人、朝鮮人、ロシア人、モンゴル人などの捕虜)も、その時に殺害されたともいわれている。
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続いて、七三一部隊がおこなっていたとされる人体実験(使用された器具なども)について、
さらに細菌感染の経過観察、細菌爆弾の効果測定実験などの資料などが展示されていた。
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凍傷の実験、細菌兵器の使用シーンのジオラマ。
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生物兵器を気球に乗せて飛ばすなどということも検討されていたようだ。
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展示の最後のほうには、ソ連による裁判と、アメリカへの情報提供についての説明があり、
七三一部隊に所属していた元隊員がしたためた後悔・懺悔の念の写し、そして細菌兵器の後遺症に苦しむ人の写真なども展示されていた。
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陳列館を出て、遺址の見学へ。
こちらの赤レンガの建物は、七三一部隊の本部の建物址
フライトレコーダーの形をした今の陳列館がオープンする前は、こちらが陳列館としても使われていたとのこと。
屋根で覆われ発掘中(?)の場所は、細菌実験室址で、日本軍による破壊の爆発場所がマーキングされていた。
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鉄道の引き込み線(↓左)。マルタはこうやってここに運ばれてきたのだろうか。。。
(↓右)はボイラー室の遺構。この施設の熱源・電力の主要供給源であったとともに、証拠隠滅工作時にはここで大量の資料を焼却し、その後このボイラー室も爆破したのだという。
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こちらは毒ガスの実験をおこなったとされる施設(↓左)と、毒ガス兵器を貯蔵したという地下貯蔵庫(↓右)。
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この陳列館・遺址は、世界遺産登録を目指しているとのことで、あまりにグロテスクな写真やジオラマの展示はなかった。
世界遺産登録ともなれば、ユネスコがこの陳列館での展示についてもきちんと精査し、客観的に事実といえるものとそうでないものの線引きもなされていくのだろう。
ここが世界遺産登録され、より多くの人が訪れるようになったら、日本人への反発が起こる・今より激しくなると思うか?という点について、ツアー参加者に自分の考えを聞かれたのだけれど、私は、アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所を訪れてドイツ人に対しての感情が変化しなかったのと同じように、特定の民族に対しての反発が起こることはあまりないのではないかと考えた(楽観的なのかもしれないが)。
七三一部隊のやったことを正当化するつもりは毛頭ないけれども、資源ももたず国力もないのに戦争にまっしぐらに突っ込んでいった大日本帝国が戦争に勝つために細菌兵器の使用に手を染めたことと、
アメリカが原爆を開発してヒロシマ・ナガサキに投下したこと、
どちらも非人道的なことには変わりはなく、ある民族が特別に残虐だという話にはならないのではないだろうか。

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2017-11