Small Talk 2

旅の記録 + ちょこっと日常のあれこれ を綴ります

ふるさと納税 ― 鹿児島県鹿屋市 

2017/09/23
Sat. 11:19

kanoya1.jpg鹿児島県鹿屋市からふるさと納税の返礼品が届いた。
鹿屋市に本社のあるフェスティバロの、唐芋レアケーキの詰め合わせ。きれいなギフトパッケージでちょっぴり高級感がある。

kanoya2.jpg詰め合わせは、
モンブラン、リンド、花九州、ラブリー、カプレスの5種類。
1箱5個入りで、合計30個!!!

kanoya3.jpgさっそく、シュリとカプレスを半解凍で食べてみた♪(←)
シュリは紫色のペーストが、カプレスはチョコレートが、唐芋レアケーキの上にトッピングされている。シュリのほうはあっさりしていて、カプレスのほうはチョコの香ばしさ・ほろ苦さが良いアクセントになっていて、どちらも美味しかった。
ついつい食べ過ぎないように、気を付けなければ!!!



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ダイドードリンコの株主優待(2017年9月) 

2017/09/19
Tue. 11:13

dydo201709.jpgダイドードリンコから恒例の株主優待がやってきた。
半年に一度のはずなのに、なんだか来る間隔が短い気がする・・・半年があっという間、月日が経つのが早くて愕然とする。。。

優待品はいつものとおり、ずっしり重く、大充実。
(過去の優待品はそれぞれコチラ → 今年の春の優待品昨年秋の優待品2016年春の優待品

たらみの子会社以降、ゼリーが入るようになってきて、この詰合せのパターンが定着してきている。大きな不満はないけれど、そろそろちょっと変化があるともっと嬉しいかも。


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ふるさと納税 - 佐賀県伊万里市 

2017/09/18
Mon. 20:20

IMG_1350.jpgふるさと納税、今回は佐賀県伊万里市からの返礼品、新高梨が届いた。

新高という品種は、とっても大きく(缶コーヒーと並べてみた)、ずっしり重くて、1つ700gくらいある。
1つを一人で食べると、これだけでかなりおなかいっぱいに。

ふるさと納税の返礼品だからまぁ仕方ないような気もするけれど、今回届いた梨にはけっこう当たりはずれがあり。。。
みずみずしくて甘い玉もあれば、なんかちょっとガスガスしていてあまり甘くない=美味しくないものも。

日持ちして、時間が経つとまた味が変わるらしいので、じっくりいただきます♪

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旧満州旅行:8日目=最終日(大連) 

2017/09/17
Sun. 22:56

【旧満州旅行 : 8日目=最終日(大連)】


旅順から大連に戻り、大連現代博物館へ。
大連の歴史を取り上げた博物館で、他の中国の博物館とは異なり、日本統治時代についても中立的な展示がなされている。大連には日本企業も多く進出してきたから???
こちらの写真は、日本帝国時代の大連港の様子。ラスト・エンペラー溥儀をはじめ、たくさんの人々を見送り迎えた半円形の待合室は、今はもう取り壊されてしまっている。
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満鉄本社の博物館も見学。
残念ながら館内は撮影禁止だったのだけれども、パネルを用いて満鉄の歴史が紹介されていた。おみやげもの屋も充実していて、満鉄のマークの入った食器(グラス、カップ&ソーサー)や大連切子などが売られていた。
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続いては旧ヤマトホテル(現・大連賓館)の見学。
現在も国営ホテルとして使われており、迎賓館は政府専用の会議室になっている(写真撮影は禁止)。
ヤマトホテルが持っているお宝(?)が展示されている陳列室もあり、樹齢100年以上の白檀から作られた球形の彫り物や、銅製の置時計などが販売されていた。
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旧ヤマトホテルが面している中山広場のまわりには、ロシア、日本統治時代の近代建築がたくさん残されていて、大連観光のひとつの見どころになっている。
ヤマトホテルの正面に建つのは、旧 横浜正金銀行大連支店(↓左)。コリント式オーダーが並ぶルネサンス様式の旧 朝鮮銀行大連支店(↓右)。
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こちらのゴシック様式の建物は、関東都督府民政部の下で大連を管轄した行政機関、旧 大連民政署(↓左)。京都祇園祭の山車をイメージしたとされる塔屋が特徴的なのは、旧 大連市役所(↓右)。
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ms-d8-42.jpgこちら(→)が1940年当時の中山広場。
日本統治時代は大広場(ロシア時代はニコラヤフ広場)と呼ばれていたとのこと。ロシア統治時代の都市計画を引き継ぎ、この広場の周囲は大連の中心地として発展した。日本ではなかなかできない街づくり、当時の人はワクワクしたのではないだろうか。

この後、日本人街のひとつと言われる南山エリアを散策。
日本人街といっても、日本統治時代の建物はもう老朽化が進みほとんど残っていなかった。

大連の町には、まだ路面電車が残っている(↓)。近代的な車両とレトロな車両の2種類があり、こちらはレトロなほう。現地ガイドは、「渋滞がひどくなるから路面電車はなくしてほしい」と話していた。
道路には、満鉄マークの入ったマンホールも(↓右)。大連のほか、瀋陽や長春にも残っているとのこと(瀋陽では夜の散歩中にいくつか見つけることができた)。

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この日の夕食は、旧ヤマトホテル=大連賓館にて(↓)、ちょっぴりゴージャスに。
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ms-d8-40.jpgms-d8-41.jpg食後の散策は、タクシーを使って大連港へ行ってみた。タクシー料金が安くてびっくり。初乗り(たぶん2km弱)10元ほどだった。

港の近くに、税関らしき堂々たる建物を発見。ライトアップがピンク色でちょっとアンバランスな感じだけれど、ドアのレリーフが凝っていて、なかなか可愛らしかった。

8日間に及んだ旧満州旅行も、観光・見学は今日で終了(明日は早朝のフライトで帰国するのみ)。
参加前の期待どおり、いろいろと勉強になった旅でした。読もうと思って読めていない本もたくさんあるので、引き続き学びは続けていこうと思います。

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旧満州旅行:8日目(旅順) 

2017/09/17
Sun. 12:56

【旧満州旅行 : 8日目(旅順)】


旅順観光は、東鶏冠山北堡塁からスタート。
ここは1900~1904年に建設されたロシア軍の防御要塞で、日露戦争において重要な役割を果たした場所。ガイドブックによれば、1904年8月19日から24日の第1回旅順総攻撃では攻撃した日本軍が全滅。その後トンネルを掘り地下から爆破、肉弾戦に持ち込み12月18日に日本軍が多数の死者を出しつつも占領に成功したとのこと。
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日本軍が爆破したとされる場所(↓右)。
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こちらは日本軍が1916年に造った戦績記念碑(↓左)と、ロシア軍の宿舎(↓右)。2階建て、それも体の大きいロシア人だからか、天井が高い。
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印象的だったのは、日本統治時代に大連近郊に暮らす日本人も、この場所を観光地(課外学習先?)として、訪れていたということ。その当時に修復された跡が残っていた。

続いて、日露刑務所旧址へ。
もともとはロシアが建てた監獄、その後日本が使用した。赤いレンガ部分が日本が増築したところ。
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この監獄は、伊藤博文を暗殺した安重根が拘留されていたところで、日本語のほかハングルでの説明書きも多かった。ガイドいわく、韓国からの観光客が訪れることも多いらしい。
網走刑務所などにも見られる看守台(↓右)。放射状に廊下が延びていて、1か所から多方向を見渡すことができる。
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安重根が処刑された、絞首刑場も残っていた(↓)。
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次に訪れたのは、日露戦争の激戦地として知られる二〇三高地
坂道を10分弱ほど上ると、高地に散乱していた砲弾を集めて造られた、弾丸の形をした記念塔(↓右)に到着。塔には、乃木希典の筆による、爾霊山(にれいざん)も文字が。
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ロシア軍が使っていた150ミリメートルキャノン砲と、旅順港が見渡せる場所に設置された重砲。
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確かにここからは旅順港がよく見え、旅順を攻略するためにはこの場所をおさえる必要があったのだと実感できた。
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乃木希典の息子(次男)もここで戦死していて、彼のための碑がひっそりと建てられていた。
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二〇三高地の陥落を受け、1905年1月に旅順総司令官ステッセル将軍から降伏の申し入れがあり、日本がこれを受け入れ日露戦争は終結。ステッセル将軍と乃木希典が会見したのが、ここ水師営会見所(↓)。
現在の建物は、1996年に当時の資料に基づき再建されたもの。中にはステッセル将軍がこの場所へ向かう写真や、乃木希典との写真なども展示されていた。
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これらを見て思ったのは、日露戦争の時代には、相手の将軍を個として称え尊重するという文化があったのだなぁ、ということ。そして武器・銃器はこの後、日中戦争から太平洋戦争にかけて大幅に威力がアップ、進化したのだということ。
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現地ガイドに、中国東北地方の人たちは、日露戦争をどう思っているか聞いてみたところ、他国同士が戦った戦争であまり興味はない、中国を戦場にした両国ともに良い感情はもっていない、とのことだった。
日露戦争で、もし日本が負けていたら・・・歴史に「タラレバ」はないけれど、満洲国は建国されることはなく、中国東北地方はロシアのものになっていたのかもしいれない。

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【旧満州旅行 : 7日目(大連/大連経済技術開発区&旧ロシア人街)】


大連到着後、大連経済技術開発区へ。
大連市の北約20㎞ほどに位置する、1984年に設立された工業団地。工業区、商業区、生活区に分けられる、いわばひとつの都市。工業区には日本企業も数多く進出している(外資系企業の1/3を占めるとのこと)。

この地区を見渡す展望台があるとのことで、そちらに向かってもらう。展望台から眺める景色は圧巻。整然とした大都市が広がっていた。
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煙が出ていると(昔ながらの)工業団地という感じもするけれど、最近はIT関連企業の進出も多いのだとか。
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夕食後、少し時間があったので、旧ロシア人街を散策(↓)。
大連は、1898年に帝政ロシアが清朝から遼東半島南部を租借し、不凍港としてロシア人がここに町を築くまで、小さな漁村にすぎなかった。大連という町の名前も、ロシア語のダーリニー=遠方の意=が由来。
日露戦争に日本が勝利するまで、ここはロシア人が開発を手掛けており、ロシア人が多く住んでいたとされるのがこの地。
現在、ここにロシア人はいないが、ロシア風の建物が復元され、ちょっとしたテーマパークっぽくなっている。
こちらの立派な建物(↓右)は、ロシア統治時代はダーリニー市役所として使われていた建物。その後、日本統治時代は満鉄本社やヤマトホテルとしても使われたことがあるという。
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旧ロシア人街で、トランプ?花札?をする面々を発見。治安上はあまりよろしくなさそうだけれども、経済技術開発区の発展ぶりに圧倒されていたこともあり、こんなところに古き悪しき(?)中国を見てなんとなく安心(?)してしまった。
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明日は、旅順にも足を延ばします。

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旧満州旅行:7日目(丹東) 

2017/09/16
Sat. 14:14

【旧満州旅行 : 7日目(丹東)】


ms-d7-1.jpgms-d7-2.jpg滞在したホテルは丹東の駅からすぐのところにあり、このホテルから北朝鮮へのツアーが催行されている模様。
中国人が北朝鮮に行くのは、パスポートさえあれば簡単なようだ。中国のように国土が広いと、「国境」自体が珍しいと現地ガイドは話していて、けっこう観光客も訪れるらしい。

丹東を流れる鴨緑江が北朝鮮との国境。この狭い川幅の向こうはなんと北朝鮮、新義州という町。
通常、河川を国教とする場合、川幅の中央を国教とすることが多いのだけれど、ここは互いの対岸が国境線になっている、つまり、川は両国の共有になっている。
船では両国民が簡単に接触できるので、脱北なんか簡単にできちゃうんじゃないかなーと思った(そのあと逃げ切れないのかもしれないけれど・・・)。さらに、現地ガイドいわく、昔は冬には鴨緑江が全面凍ったので、スケートをして遊ぶこともできたのだとか。

北朝鮮側は農村という感じだが、その対岸の中国側は、丹東新区といって絶賛開発中のエリア(↓右)。
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川が国境だと思っていたら、川沿いではない国境線も。こちらのゲートの向こうは、北朝鮮と中国が共同で開発しようとしていた黄金坪という場所。ただし、この計画を進めていた北朝鮮のNo.2、張成沢が甥の金正恩に処刑されてしまったために、計画がとん挫してしまっている。
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「北朝鮮に食べ物を投げるな」の看板があるけれど、春の田植えの時期になると、北朝鮮側での田植えの光景が見られるとのことで、ここを訪れる観光客もいるのだとか。
国境付近の警備はユルユルで、まったく緊迫した感じはしなかった。意外といえば意外、ただ中国と北朝鮮の関係が悪くないからこんなに長閑(?)なのだろう。北朝鮮情勢が騒がしいけれど、対北朝鮮という点でいえば、ここ丹東はもっとも安全な場所のひとつかもしれない。

続いて訪れたのは、新鴨緑江大橋(↓)。
橋自体はできているけれども、北朝鮮側の事情により未開通のまま。
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この近くに出ていた露店で、北朝鮮のお金のセットを購入(↓右)。
北朝鮮は頻繁に紙幣のデザインが変わるらしい。旧紙幣を使えなくすることによって、タンス預金=個人の蓄財を防ぐことができるから。北朝鮮は、やることが徹底しているなぁ・・・
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この日は土曜日だったので、あちこちで結婚式が開かれていた。花嫁を迎えに行くリムジンはピンク色の風船で飾られ、ホテルのゲートも競い合うようにしてデコレーションされ、色とりどりの煙が出る爆竹もバンバン鳴って、とても賑やかだった。
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40分ほどの鴨緑江の遊覧船クルーズを楽しむ。
こちら(↓右)は、この後訪れる鴨緑江断橋。1909~1911年に建設された鉄道橋だったが、1950年、朝鮮戦争(中国では抗美援朝という)のさなか、アメリカ軍の空爆により断絶されてしまったもの。
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遊覧船の左右で、こんなに風景が違う。。。。北朝鮮の人たちは、この対岸の中国の発展ぶりを見てどんな風に思っているのだろう?
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アサリか何かを獲っている北朝鮮のボート???
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クルーズ後、鴨緑江断橋へ。ここは実際に断絶された場所まで歩くことができ、人気の観光スポットになっている。
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破壊される前は、真ん中の部分が回転する仕組みになっており、その構造がパネルで紹介されていた。
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断橋の先端部分。パラソルの下には望遠鏡(有料)があり、対岸の北朝鮮を見ることができるようだった。
ここには国旗がたくさん飾られていたのが印象的。写真撮影をしたら必ず写り込むことを狙っているのだろう。
この断橋の隣にある、対岸までかかっている橋は、中朝友宜橋。現在ピョンヤンまでの鉄道が走っているという。
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朝鮮との国境は、ここを実際に訪れてみないとわからないことも多く、新しい発見があってとても面白かった。
もし北朝鮮という国がなくなって韓国と統一などされたら、米軍がすぐそばに駐留できてしまうことになるので、中国はそんなことを絶対に望まないだろう。南北に分断されてしまった朝鮮半島は気の毒だとも思うけれど、この状況はしばらくは(少なくともあと50年くらいは)変わらないんじゃないかな。

丹東での滞在時間は短く、以上で観光終了。朝鮮戦争に関する記念館があるようだったので、そこはちょっと見てみたかったな・・・

この後、丹東駅から高速鉄道で大連へ。

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旧満州旅行:6日目(撫順) 

2017/09/15
Fri. 22:14

【旧満州旅行 : 6日目(撫順)】


瀋陽からバスで撫順へ。
最初に訪れたのは、撫順の市街地の南にある平頂山惨案遺址紀念館へ。
中国側の説明によれば、ここは、撫順炭鉱が抗日軍に襲撃された見せしめとして、周辺の村人およそ3,000人を虐殺し、そのあとガソリンをまいて火を放ち、その証拠を隠蔽したとされる跡地に建てられた記念館。
豊かになった中国が、最近また立派な施設を造った模様。
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満鉄にとってここ撫順の炭鉱は重要な財源であり、その開発も積極的におこなっていた。
こちらは炭鉱に労働者として連れてこられた中国人たちが暮らしていたバラックと、炭鉱を管理していた日本人の住宅の写真(↓)とのこと。
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ガイドの説明によれば、この虐殺事件は、1932年9月16日、「写真を撮るから集まるように」と村人が集められ、赤い布の覆いがとられると、機関銃を持った日本軍や警察が、次々と村人を射殺していった。被害者はおよそ3,000人。その事実を隠すため、その後亡骸は集められ燃やされたのだという。
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写真撮影禁止のエリアには、大量に発見された遺骨が展示されていた。中には小さな子どもと見られるものも。
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そもそもこの周辺の村に3,000人もの人はいなかったとも言われており、写真撮影でその人数を集めるというのも無理があり、軍や警察が組織的に関与したのかどうかも詳細は不明ではあれど、何らかの形での大量殺人はあったことは事実なのかな、と思った。
記念館の中で、大学生くらいの若い中国人に、「この事件についてどう思うか?」と(英語で)質問され、回答に困った。
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たまたま訪れたのが9月15日で、事件のあった日の前日に当たるため、明日の式典のリハーサルがおこなわれていた(↓左)。あまりに緊張感がないリハーサルで、本番大丈夫か?と要らぬ心配をしてしまうほど。こういうところ、北朝鮮だったらピシッとしてそう。

記念館の周囲には、生存者がジャーナリストに語ったといわれるこの事件の内容を刻んだ石碑(↓右)がたくさん並んでいた。
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生存者(か、被害にあったとされる人の遺族)が、この事件に関し日本国政府を訴えていて裁判になっていることも、記念館では紹介されていた。日本でも報道とかされたのかな・・・日中国家間の賠償は終わっているので、門前払いになっている気もするけれど。

日中両国がこの事件について共通の歴史認識をもつことは、きっとこの先もできないのだろうなぁ・・・


続いて訪れたのは、撫順戦犯管理所旧址
もともとは日本軍が抗日中国人を収容するために使っていた撫順監獄で、戦後は日本人戦犯、満洲国に関与した戦犯、そして国民党の戦犯などが収監された場所。ラスト・エンペラー溥儀もここで「改造」されたことで有名。
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この収容所の方針は、「罪を恨んで人を恨まず、人を戒め人を救う」とのことで、収容された戦犯たちも「人間」として扱われ、食事を与えられ、施設内には病院もあり治療が受けられたとのこと。シベリア抑留の過酷さとは天と地ほどの差があったといえるのではないだろうか。
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「鬼」として描かれた日本人(↓左)と、罪を認める告白をしたというステージ(↓右)。
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こちらは病院(↓)。張作霖の仲間で、のちに満洲国の首相となった張景恵や、溥儀も使ったというベッドには、その案内札が建てられていた。ちなみに、張景恵はここで病死している。
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ラスト・エンペラーが収容されていたこともあり、溥儀の展示も充実していた。
こちら(↓左)は各国の王や皇帝がどのような死に方をしたのか、を紹介したパネル。たとえばフランスのルイ16世はギロチンで処刑、と書いてあった(中国語なので正確にはわからないけど)。
ルイ16世を引き合いに出すことで、この戦犯管理署を笑顔で(?↓右)出た後、市中の一生活者として亡くなった”ラスト・エンペラー”溥儀は素晴らしい(=中国共産党は寛容である)というメッセージが際立つ。
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溥儀が書いた「わが半生」。ずいぶん前に読んだきり、今回の旅行を終えた後もう一度読み直したら、感じ方がぜんぜん違うのかもしれない。
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この後、瀋陽に戻り、高速鉄道に乗って北朝鮮との国境の町、丹東へ。
駅前には毛先生がいらっしゃいました!
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(7日目)へ続く。

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旧満州旅行:5日目(瀋陽/故宮など) 

2017/09/14
Thu. 22:19

【旧満州旅行 : 5日目(瀋陽/故宮など】


瀋陽の故宮は、清の前身であった後金の初代皇帝ヌルハチが建設を始めた宮殿。山海関を越えて北京入りし紫禁城に宮殿を移した後も、行宮として歴代の清の皇帝はここに立ち寄ったという。
八角形の建物は大政殿。皇帝が式典をおこなう場所で、第3代順治帝の即位式もここでおこなわれたのだという。この大政殿の周囲には十王亭(八旗亭)が並んでいる。
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こちら(↓左)は、四庫全書を収容するために建てられた文そ閣。北京への遷都後に造られたもの。
第2代皇帝ホンタイジと皇后がくらした清寧宮(↓右)。内部はオンドルになっていた。
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ms-d5-33.jpg続いて訪れたのは、奉天派の軍閥、張作霖と張学良の官邸兼私邸(張氏帥博物館)(↓)。
現地ガイドに聞いたところ、現代の中国東北地方の人たちの間では、一般的に言えば、張学良は人気があり(国共合作の立役者だし)、張作霖は人気がない(悪者扱い)なのだという。
評価されている証なのか、「張学良将軍」の銅像(←)も建てられていた。

メインの建物(大青楼↓)には、プライベートな寝室のほか、執務室や宴会場などがあった。学歴はなかった張作霖だが、字を書くのは好きだったらしく、彼の書が至る所に飾られていた(ガイドは下手くそだと笑っていたが・・・)。

父・張作霖を亡くした張学良が、父の腹心の部下で関東軍とも近かった楊宇霆と常蔭槐を銃殺した(楊常事件)のもこの私邸だったとのことで、そのシーンが再現された展示もなされていた。ガイドの説明によれば、張学良が権力を掌握するためにこの2人を抹殺すべしとアドバイスしたのは張学良の妻(父が決めた姉さん女房)で、張学良はこの妻を非常に恐れていたのだとか。

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こちらは小青楼(↓)。
1928年6月4日、蒋介石の率いる北伐軍との決戦を断念して満洲へ引き上げる途上、関東軍によって乗車していた列車が爆破され、瀕死の重傷を負った張作霖が運びこまれたところでもある。
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ms-d5-34.jpgこちらは、台湾での幽閉生活から最期をむかえたハワイでの生活まで、ずっと張学良と一緒にいた趙一荻のための家(→)。父・張作霖が彼女を家の敷地内に入れることを拒んだため、敷地の外に彼女のための家が建てられたとのこと。

瀋陽の観光地としては、ヌルハチが眠る福陵やホンタイジが眠る昭陵などもあるものの、今回の旅行のメインテーマからは少し外れるため訪れず、以上で瀋陽の観光は終了。

夕食後、少し時間があったので、ツアー参加者が企画した街歩きツアー(?)に参加。ホテル近くの瀋陽北駅から地下鉄に乗り、繁華街をふらふら歩いてみた。
地下鉄は近代的でピカピカ(↓左)。切符はプラスチックのカードで再利用が可能なものだった。
繁華街のメインストリートは歩行者天国になっていて、その歩行者天国の道の真ん中に、電話ボックスならぬカラオケボックスが並んでいてびっくり!2人くらいは入れる大きさのボックスで、カーテンで仕切って外から顔は見えないしくみ。防音はけっこうしっかりしていて、ボックスの近くに寄ってみないと歌声は聞こえてこなかった。
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中山広場の向いの旧奉天ヤマトホテル(↓)ものぞいてみた。
建物内の階段がアールヌーヴォー様式(?)で、とってもステキだった。この写真では、そのステキさはあまり伝わらないけれど・・・
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中山広場の真ん中にたつ毛沢東の像(↓左)と、中山広場に面して建つ歴史ある(おそらく満洲帝国時代からの)建物(↓右)。
昔、中国を旅したことのある人いわく、毛沢東の像の数はものすごく減っている、と。
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明日は、撫順を訪れます。

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【旧満州旅行 : 5日目(瀋陽/九・一八歴史博物館&中国工業博物館)】


瀋陽は遼寧省の省都。これまで訪れてきたハルビン、長春とは異なり、清朝の始祖ヌルハチが都を置いた歴史ある町。
他方で重工業で発展した(6日目に訪れる撫順炭鉱に近いことも一因だろう)大都市でもある。

瀋陽で滞在したホテルは北駅(↓左)の近くで、瀋陽の金融街にあったこともあり、高層ビルが林立(↓右)。
大都市なので、もっと排気ガスがすごくて空気が悪いのでは?と思っていたけれど、気になるほどではなかった。
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まず訪れたのは九・一八歴史博物館(↓)。
九・一八事変とは、「柳条湖事件」のこと。1931年9月18日、関東軍が奉天駅から北へ10㎞離れた満州鉄道の線路を爆破した事件で、これが関東軍による中国東北部支配のきっかけとなった。
日本では日中戦争は1937年の盧溝橋事件から始まるとの認識が一般的だけれども、中国での抗日戦争はこの九・一八事変から始まるという位置づけ。
カレンダーの形をした巨大な建物は旧館で現在は使われていないが、その大きさからしてもインパクト大。
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主な展示品については、日本語での説明書きも書かれているものが多く、入館すると最初に目に入るモニュメントには、次のような言葉が書かれていた。
「1931年9月18日は、中華民族の国辱の日である。
中国人民はこの日を未来永劫忘れ得ぬ日として記憶することを誓う」


こちらは、満洲国建国の詔と、溥儀の即位式の様子を再現したジオラマ(↓)。
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ms-d5-6.jpg世界遺産登録を目指している七三一部隊の陳列館とは異なり、こちらの展示は目を覆いたくなるようなえげつないものも少なくなかった。

こちらの博物館の開館は、1999年9月18日。
反日政策をとった江沢民国家主席の時代でもあり、中国もお金持ちになってこういう立派な箱モノも作ることができるようになった時代、いよいよ中国が日本を抜いてアジアの盟主の座に返り咲くことが見えてきていた時代。
日本が中国でおこなったことが酷ければ酷いほど、その日本軍に勝った中国(共産党)は素晴らしいという理屈で、日本叩きがより激しくなったのかもしれない。

↓左 : 抗日戦線で戦った兵士たちの処刑
↓右 : 炭鉱で強制労働されられる中国人労働者

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1972年の日中国交正常化についても触れられていて、中国と日本はともに平和な社会のために手を取り合ったにもかかわらず、
靖国参拝を取り上げて最近の日本は右傾化している、
中国はアジアの盟主として、日本の右傾化を止めなければならない、そんなことも書かれていた。
そして、中国が日本に侵略されたのは当時の中国(清朝)が弱かったからだ、だから(他国に侵略されないために、もう二度あんなひどい目に遭わされないように)中国は強くあらねばならない、そんなメッセージも伝えられていたように感じた。
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ジオラマがたくさんあったこともあり、子どもたちが課外学習にたくさん訪れていた。展示の内容をどれだけわかっているかは疑問だけれども、これが反日感情のきっかけになってしまうかもしれないと思うと複雑な気持ち。
そして博物館の出口には、「共産党の入党の誓い」が(↓右)。
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九・一八歴史博物館を見て、その視点はなかったなと気づかされたのは、日本の支配で土地を追われた中国人たちが少なくなかったのだということ。そもそもの土地が広く、東北地方の人口密度も高くはなかったとはいえ。。。

次に訪れたのは、中国工業博物館
満洲国時代の1933年ごろから開発が始まった鉄西区にあり、当時は十数社の鉄工所・機械製作所の工場があったのだという。
戦後、その工場を受け継いだ中国は、ここを瀋陽鋳造工場として発展させ、2005年まで稼働していたとのこと。
満洲国時代にここがどの程度開発されていたのかは調べていないけれど、少なくともここは空襲を受けることもなく、(時間はかかったかもしれないけれど)中国の発展に役立ったのだと思うと、ちょっとホッとできる。

通常の観光コースには入らない博物館なので、観光ガイドもきちんと説明できず、もちろん日本語の解説もなく、かなり消化不良。
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自動車の歴史を紹介した展示などもあった。
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広い博物館で、どこをじっくり見てよいかもよくわからなかったのだけれど、展示が充実しているのは「鉄西館」というところで、中国の重工業の歩みが紹介されていた。もちろん、今の共産党からすると汚点でしかないと思われる「大躍進」政策については一切触れられておらず、他方で鄧小平氏の写真は大きく飾ってあった・・・わかりやすい。

今の中国の若い人たちは、大躍進や文化大革命のことを学校で習っているのだろう?

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旧満州旅行:4日目(長春) 

2017/09/13
Wed. 20:54

【旧満州旅行 : 4日目 (長春)】


本日は、長春の観光。
長春は吉林省の省都で、満洲国時代は首都「新京」。その時代に計画的な都市づくりがなされたという。
長春観光のハイライトは、偽満皇宮博物院。中国共産党は、満洲国を正式な国家として認めていないので、常に「偽」の文字が頭につく。

ms-d4-1.jpg清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀が、満洲国の皇帝として1932年から1945年まで過ごした宮殿。
もともとは塩の専売公社の建物で、急遽、仮の宮殿として改築したもの。本宮殿の建設は進めたものの、戦争による物資不足などが原因で、本宮殿の建設は中止され、完成することはなかった。

ms-d4-0.jpg入口の門に大きく描かれていたのは、蘭(西洋の蘭ではなく、フジバカマという東洋の花)をイメージした満洲国の国章
5枚の花弁は、日本(大和)、満州、朝鮮、漢、蒙古の5つの民族を表していて、”五族協和”の建国理念がここにも示されていた。

博物院の入口は、興運門(↓)。
門をくぐって振り返ると、時計の針は9時10分を指したままで止まっている。この時刻は、日本の敗戦間際(1945年8月10日?11日?)に日本へ亡命すべく溥儀一行がこの宮殿を去った時刻なのだという。
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門を超えてすぐのところにあったのが、暢春軒(↓)。
溥儀の妹たちが暮らしたところで、寝室や応接室などがあった。溥儀の実父が訪ねてきた時にもここに滞在したとのこと。
ちなみに、この博物院に展示されている家具はほぼほぼ全てレプリカで、本物は文化大革命時にすべて失われてしまったらしい。
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こちらの建物は、絹熙楼(↓左)。
建物の前には、反日政策をとった江沢民(1993~2003年の国家主席)の筆による「勿忘 九・一八(9・18を忘れるなかれ)」の碑が。
絹熙楼は溥儀とその妻たちのプライベートな空間で、1階は溥儀が最も愛したとされる第3夫人の譚玉齢の住まい(↓右は譚玉齢の応接室)になっていて、
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2階は溥儀と皇后の婉容の住まいになっていた。
溥儀の理髪室(↓左)と、アヘン中毒だった婉容のアヘンの吸引室(↓右)。
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続いての建物は、勤民楼(↓左)。
勤民楼は公式行事などが行われたパブリックスペースで、こちら(↓右)が溥儀の皇帝即位式がおこなわれた広間と玉座
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仏間(↓左)やダイニングルーム(↓右)などもあった。西洋式の教育を受けた溥儀は、このダイニングルームには楽団用の小部屋も作らせたのだという。
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溥儀たちが利用していたという自動車(↓左)。これはレプリカでなくて本物なのかなぁ????
こちらの黄色い瓦屋根の建物は、1938年に日本人によって設計され建設された同徳殿(↓右)。
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同徳殿の見どころは、映画『ラスト・エンペラー』のロケにも使われたロビー。
純金が用いられ、1つ1トンにも及ぶ豪華なシャンデリアが4つある。
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以上で、博物院の観光は終了。
ツアー参加者の一人が、「たしかに立派な建物かもしれないけれど、紫禁城と比べたら犬小屋みたいなものだよねー。屈辱だったんじゃない?」と一言。ワタクシは紫禁城を訪れたことはないけれど、確かにそれと比べたら犬小屋どころか鳥小屋くらいかも。ただ、紫禁城での皇帝としての生活も、何をするにも誰かがいて、いろいろ大変だったような気もする。

この後、旧満洲国時代の官公庁街を散策。
松並木のまっすぐな道路沿いに建物が並んでいた。
威厳を示すために堂々とした建物が多かったけれど、これらの建物は遺産として今後も保存されていくのだろうか。それとも取り壊されていくのだろうか。
こちらの建物(↓左)は偽満洲国交通部旧址(現・吉林大学公共衛生学院)、(↓右)は旧関東軍司令官官邸(現・松苑賓館=ホテル)。
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ms-d4-16.jpg長春駅から、また高速鉄道に乗って瀋陽へ。
長春駅の広い待合室には、軍専用(優先?)の待合スペースも設けられていた。
ms-d4-17.jpg瀋陽駅には1時間半ほどで到着。
瀋陽駅(←)は、東京駅を模したデザインだといわれているけれど???

明日は、この旅のもうひとつのハイライト、九・一八事変陳列館を訪れます。

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旧満州旅行:3日目(ハルビン → 長春) 

2017/09/12
Tue. 22:46

【旧満州旅行 : 3日目(ハルビン → 長春)】


ms-d3-19.jpg七三一部隊の見学の後はハルビンに戻り、東北烈士記念館へ。
ここは、抗日戦争と国民党との解放戦争で命を落とした東北地方の革命人士を記念して作られた記念館。
満州国時代に関東軍の憲兵司令部があった建物が利用されている(←)。

ms-d3-20.jpgこちら(→)は、日本の統治時代の遊郭と遊女たちの写真。
この写真はここだけでなく、他の博物館(どこだったか忘れたけど)でも展示されていて、日本人統治時代のひとつの負の象徴になっているのかな、とも思った・・・お隣の国の話があるから、深読みしすぎなのかもしれないけれど。

革命人士がいかに日本軍に抵抗したか、ということを強調するためなのか、それとも反日感情をあおるためなのか、その両方なのか、日本軍が抵抗する中国人に対していかに残虐だったか、という展示が多かった。
こちら(↓)は、拷問の道具と絞首刑の場所。もともとの建物が憲兵司令部なので、実際に使用されていたものなのかもしれない。。。。
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趙一曼という、反満抗日ゲリラに参加した女性の英雄の展示も充実していた。彼女は日本軍につかまり拷問を受け、治療を受けていた病院から逃げ出して、戦い続けたのだという。彼女の遺書には、息子に母(自分)が何のために戦っていたのかその姿勢を忘れないで欲しいと書かれていたとのこと。

抗日部隊の指揮官として活躍した趙尚志を紹介したパネル(↓右)。1942年に34歳の若さで亡くなっている。
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続いては、南崗展覧館へ。
もともとは東清鉄道の社員のための宿舎だった洋館で、ハルビンの歴史が紹介されていた。
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ms-d3-28.jpgこれでハルビンの観光は終了。ハルビン西駅から鉄道、中国版の高速鉄道で長春へ。
中国の高速鉄道に乗るときは、駅では荷物のセキュリティチェックがあり、さらにパスポート提示が求められた。指定席は記名式。これは外国人だからなのか、それとも全乗客がそうなのか?

駅は機能的に造られていて、乗車フロアと後者フロアが分かれている。
空港と同じで、乗車フロアには広い待合室があり、時間になったらホーム(ゲート)ごとに改札が開き、ホームに降りて乗車する、というシステム。

外観も車内の様子も新幹線そっくり。
でも、各車両にスーツケースなど大きな荷物多くスペースがあるところは、こちらのほうが進んでいるというか、使い勝手が良い。
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長春には1時間ほどで到着。夕食は、満州料理をいただく。
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味付けは少々濃いめ、川魚の煮つけがインパクト大。紫っぽい穀物は、コーリャン。昔は貧しい人が食べていたけれど、最近は栄養価が高くヘルシーだということで、コーリャンが見直されているのだとか。
黄色い饅頭のようなものは、中には東北地方でよく食べられているという、白菜を発酵させた漬物が入っている。この漬物、かなり酸味が強く独特な味だった。
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4日目へ続く。

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【旧満州旅行 : 3日目 (ハルビン/侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館・遺址)】


3日目は、この旅のハイライトのひとつ、侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館・遺址へ。
通常は45分くらいのところ、この日はなぜか渋滞に巻き込まれてしまい、ハルビンのホテルから1時間半以上かかって到着。
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七三一部隊の正式名称は、関東軍防疫給水部石井四郎を隊長に、1936年から1945年(終戦直前)まで、細菌戦のための研究を秘密裏に行っていたとされる。
まずは陳列館(←)の見学。

ms-d3-1.jpgこの陳列館は2015年8月15日(意味深い)にオープンした新しい記念館で、これにより真実が明らかになるという意味を込め、フライトレコーダーの形をしている(←)。

とても立派な陳列館ではあるけれど、入場は無料。多くの人に訪れてもらいたいということなのだろう。
音声ガイドもあり(ただし自分で番号を押すタイプでなく、ある場所に来たら音声が流れるタイプでかなり使い勝手は悪かった)、日本語にも対応。

館内に入ると、いきなり「非人道的な残虐行為」という強烈な言葉が飛び込んでくる(→)。
中国語、英語、日本語、ハングル、モンゴル語、そしてロシア語での案内。(モンゴルって、キリル文字使ってたのね~。モンゴル行ったことあるくせに全然記憶になかったわ(汗))。

展示はまず、七三一部隊とは何か、その組織の説明から始まる。
この組織図のトップには、「天皇」と書かれていて、その下に陸軍省参謀本部、その下に関東軍があり、その下にこの七三一部隊の名前がある。
そして七三一部隊のトップ、石井四郎の写真も。この陳列館の解説によると、石井四郎は敗戦後の責任追及・裁判から逃げるために自分の葬式をあげさせた、とのこと。これが事実かどうかは確認してはいないけれど、最終的には石井四郎は米国にこの七三一部隊での詳細な研究成果をアメリカに渡すことで訴追を免れ、1959年に他界している。

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在りし日の七三一部隊の様子(↓)。1945年8月9日のソ連軍の侵攻直後、証拠隠滅のため爆破された。
人体実験の犠牲となった「マルタ(丸太)」と呼ばれた人々(中国人、朝鮮人、ロシア人、モンゴル人などの捕虜)も、その時に殺害されたともいわれている。
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続いて、七三一部隊がおこなっていたとされる人体実験(使用された器具なども)について、
さらに細菌感染の経過観察、細菌爆弾の効果測定実験などの資料などが展示されていた。
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凍傷の実験、細菌兵器の使用シーンのジオラマ。
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生物兵器を気球に乗せて飛ばすなどということも検討されていたようだ。
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展示の最後のほうには、ソ連による裁判と、アメリカへの情報提供についての説明があり、
七三一部隊に所属していた元隊員がしたためた後悔・懺悔の念の写し、そして細菌兵器の後遺症に苦しむ人の写真なども展示されていた。
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陳列館を出て、遺址の見学へ。
こちらの赤レンガの建物は、七三一部隊の本部の建物址
フライトレコーダーの形をした今の陳列館がオープンする前は、こちらが陳列館としても使われていたとのこと。
屋根で覆われ発掘中(?)の場所は、細菌実験室址で、日本軍による破壊の爆発場所がマーキングされていた。
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鉄道の引き込み線(↓左)。マルタはこうやってここに運ばれてきたのだろうか。。。
(↓右)はボイラー室の遺構。この施設の熱源・電力の主要供給源であったとともに、証拠隠滅工作時にはここで大量の資料を焼却し、その後このボイラー室も爆破したのだという。
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こちらは毒ガスの実験をおこなったとされる施設(↓左)と、毒ガス兵器を貯蔵したという地下貯蔵庫(↓右)。
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この陳列館・遺址は、世界遺産登録を目指しているとのことで、あまりにグロテスクな写真やジオラマの展示はなかった。
世界遺産登録ともなれば、ユネスコがこの陳列館での展示についてもきちんと精査し、客観的に事実といえるものとそうでないものの線引きもなされていくのだろう。
ここが世界遺産登録され、より多くの人が訪れるようになったら、日本人への反発が起こる・今より激しくなると思うか?という点について、ツアー参加者に自分の考えを聞かれたのだけれど、私は、アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所を訪れてドイツ人に対しての感情が変化しなかったのと同じように、特定の民族に対しての反発が起こることはあまりないのではないかと考えた(楽観的なのかもしれないが)。
七三一部隊のやったことを正当化するつもりは毛頭ないけれども、資源ももたず国力もないのに戦争にまっしぐらに突っ込んでいった大日本帝国が戦争に勝つために細菌兵器の使用に手を染めたことと、
アメリカが原爆を開発してヒロシマ・ナガサキに投下したこと、
どちらも非人道的なことには変わりはなく、ある民族が特別に残虐だという話にはならないのではないだろうか。

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旧満州旅行:2日目(ハルビン/教会めぐり) 

2017/09/11
Mon. 20:17

【旧満州旅行 : 2日目 (ハルビン/教会めぐり)】


帝政ロシアによって都市づくりが始まったハルビンには、ロシア正教会をはじめ、たくさんの教会が建てられたが、今残っている教会は数少ない。というのも、文化大革命の時代に木造建築の大半が破壊されてしまったから。。。

そんな中、あまりに頑丈で破壊できずに残ったというのが、こちらの聖ソフィア教会(↓)。こちらのタマネギ型のドームは、今ではハルビンの象徴にもなっている。
こちらの教会、現在は教会としては利用されておらず、1900年代初頭~のハルビンの様子を伝える博物館になっている。
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鉄路橋を架ける工事の様子、昔のハルビン駅(1910年に伊藤博文が暗殺された場所。現在は完全に改築されてしまっている)の様子、賑わう中央大街(キタイスカヤ)の様子など、いろいろな写真が展示されていたのだけれど、もっとも印象に残っているのがこちら(↓)、ピクニックを楽しむロシア人の写真
平和な、のどかな写真ではあるけれど、不凍港が是が非でも欲しかったロシアが南下政策の一環で手に入れ、東清鉄道を建設し街づくりを進めたこの土地への思い入れというか、心意気というか、そんなものが感じられた。
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この教会の周囲にある広場は、景観を守るために洋風建築で統一されている(↑右)。時折、音楽に合わせて噴水が上がっていた。

続いて訪れたのは、マーケット(道里菜市場)。
中国では高級食材として人気とは聞いていたけれど、やたらとナマコの存在感があった。
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お次は、シナゴーグ(ユダヤ教堂)
もともとは1918年に建てられたものだが、現在は改築されていてピッカピカの新しい建物になってしまっている。
こちらも今は宗教的には使用されておらず、ハルビンのユダヤ人の足跡を語る資料館になっている。
帝政ロシア時代、数多くのユダヤ人もハルビンに移住していて、最大では2万人にも上るユダヤ人がこの地で暮らしていたのだという。経済活動が得意なユダヤ人のこと、この地でも大活躍していたのだろう。
こちら(↓右)の写真は、1932年の大洪水のときのもの。シナゴーグは避難にあった人々への支援をしていたのだという。
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日本がロシアに代わって満洲を支配していた時代にも、大連・旅順や奉天、新京からは遠く北にあったハルビンには、まだまだ多くの外国人が暮らしていたようで、ここからユダヤ人がいなくなったのは、共産党支配が強まり、かつ、1947年にイスラエルが建国された頃なのだとか。こちら(↓右)の書類は、ユダヤ人の身分証明書。イスラエルへの移住に必要な書類だったのかもしれない。
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こちらは、ハルビン天主教堂(旧アレクセイ教堂)(↓)。天主教=カトリックのこと。
ここも今は教会としては使われておらず、ホールになっていて結婚式などもおこなわれているとのこと。
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ms-d2-30.jpgこちらは(←)はウクライナ教堂(中国東方正教会)
1930年に建てられたもので、現在も祈りの場として使われている。

ms-d2-34.pngてっぺんの十字架は、ワタクシたちにはちょっと見慣れない八端十字架
見慣れている十字(ラテン十字)に2本の線が加えられていて、Wiki先生によれば、

上部の線はハリストス(キリストのギリシャ語・ロシア語読み)の罪状書き(聖書に記述のある、「ユダヤ人の王・ナザレ人イエス」と書かれた札)を表していて、
下部の斜めになった線は、足台(ハリストス磔刑時の十字架に足置きがあったとされ、磔刑の場面を描いたイコンなどにも足置きが見られる)で、左上は天国(楽園)を示しているのだとか。

この八端十字架は、ロシア正教会、ウクライナ教会などで頻繁に用いられ、ブルガリア正教会、セルビア正教会などのスラヴ系正教会でもよく用いられるとのこと(考えてみたら、スラヴ系の教会とか、どこにも行ったことないな~)


こちらはウクライナ教堂のすぐ近くにあった、ドイツ系のプロテスタント教会。屋根のモスグリーン(?)がとても不思議な感じ。でもドイツっぽいといえばそんな気も。
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こういう教会を見ると、ハルビンは都市建設当時は、西洋人がたくさん生活していた都市だったことがうかがわれる。
他方で、今回の2日半というハルビン滞在中、観光客を含めいわゆる西洋人にはまったく出会わなかった。良い悪いという話ではないけれど、ちょっと寂しいような気も。。。

本日の夕食は、ロシア料理。メニューは定番のボルシチ。味のほうは・・・ノーコメント。
1900年にロシア人が製造を開始した中国では最も歴史のあるハルビンビールは、アルコール度数が低めですっきりした(薄い?)味でした。
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帰りにショッピングモールをのぞくと、シーズンだったこともあり、ハーゲンダッツのアレンジ月餅?が売り出されていた。パッケージが可愛らしい。
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今日は月曜日だったので主だった博物館が休館日で、のーんびりした観光のみ。
明日からはいよいよ本番(?)、大日本帝国がこの地で過去におこなったことと、それらに対する中国共産党の現在の見方を、学んでいきます。

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【旧満州旅行 : 2日目 (ハルビン/松花江と中央大街)】


2日目は朝の散歩からスタート。昨日の曇天からは打って変わって、本日は快晴なり

まずは、防洪紀年念塔とその前の広場へ。
ハルビンを流れる松花江(アムール河=黒竜江の支流)は、1932年、1957年、そして1998年と3度、大きな洪水をおこしていて、その時の水位が塔の土台に記されている。

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川沿いには遊歩道が整備されていて、朝6時ごろにはたくさんの人が体を動かしていた。
おそろいのウェアを着て音楽に合わせて謎の体操をする人たち、伝統的な太極拳をする人たち、
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釣りをする人たち、そしてまだまだ水は冷たいだろうに川で泳いでいた人たち(観光客?にせがまれ写真撮影中)。
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広場で書道の練習をする人も。
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とてもさわやかな気候だったので、遊歩道をずんずん歩き、濱洲鉄路橋まで歩いてみた。この橋は、ハルビン(哈爾)と満里を結ぶ東清鉄道の一部として1900年に完成した鉄道橋。長さ約1.1㎞、現在は平行して新しい鉄道橋ができたため鉄道橋としては利用されておらず、一般に開放されている。
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鉄路橋を少し歩いてみると、この橋の建造時の様子がパネル写真つきで説明されていた(中国語のみだったので、しっかり読んだわけではない)。
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朝の散歩の途中、中国名物(?)の痰をはく人たちや、歩きタバコをしている人を目にはしたけれど、遊歩道はきちんと掃除が行き届いていてゴミも少なく、とても快適だった。

朝食後、ハルビンの教会巡りなどをしたのだけれど、その様子は次の日記で。



ハルビンのメインストリート、中央大街は、帝政ロシアが支配していたときにはキタイスカヤと呼ばれていて、その当時から商業地の中心地だったのだという。
この通り沿いには歴史的な建築物がたくさん残っていて、それらがひとつの見どころとなっている。
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こちら(↓左)は、旧松浦洋行。堂々としていながら優雅なたたずまい。
その隣の写真は、松浦洋行の3階から撮った写真で、奥のピンク色の建物が旧モデルンホテル。1913年創業の外資系(フランス)のホテルで、今もホテルとして使われている(が、資本はおそらく中国系)。
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旧松浦洋行は、今はちょっとしたインフォメーションセンターとして使われていて、中に入ることができた(↓)。
階段やシャンデリアはおそらく当時のまま。ハイカラな感じ。
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2日目(ハルビン/教会めぐり)へ続く。

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旧満州旅行:初日 

2017/09/10
Sun. 21:12

【旧満州旅行 : 初日 (成田 → ハルビン)】


今年の夏休みの旅先は、中国東北地方、いわゆる旧満州と呼ばれこと、そしてそんなタイミングでちょっと変わったおもしろそうな企画のツアーが募集されていたこと、この2つがきっかけになった。

訪れるのは、ハルビン、長春(旧・新京)、瀋陽(旧・奉天)+撫順、丹東(旧・安東)、そして大連+旅順
中国国内の移動は、鉄道(中国版の新幹線)を利用。

ms-d1-1.jpg初日は移動日。
12:50成田発の、中国南方航空6086便にてハルビン(哈爾浜)へ。フライト時間は3時間ほど。
この距離なら機内食がおいしくなかろうが、座席が狭かろうが、無問題。

あいにくの曇天でうまく写真も撮れなかったのだけれど、ハルビンに近づくと大平原の中に忽然と高層ビル群が現れて、驚かされる。
後から聞いた話によると、それらはハルビン郊外の新興住宅街の高層マンションとのこと。郊外で不便なのであまり売れ行きは良くなく、空室も多いらしい。そして高層階よりも低層階のほうが人気なのだとか(高層階になればなるほど手抜き工事リスク?が高まるらしい)。
これだけ土地があるのだから、高層マンションになんてする必要はまったくなさそうなのだけれど・・・・

そのハルビンは、黒竜江省の省都で、市内の人口はおよそ500万人、郊外も含めると1200万人。国土も広く人口も多い中国のこと、この規模だと国内トップ10にも入らない。

ハルビンの空港に到着。
国際空港にしてはものすごくショボい空港だなーと思ったら、国際空港は現在拡張工事中とのことで、ワタクシたちが到着したのは通常は国内線発着に利用される空港だったのだとか。

ハルビンで滞在するホテルは、中央大街というメインストリートに面したところでとても便利だった。
こちら(↓左)がホテルの部屋から撮った写真(中央大街ではない)。遠くに見える高層ビルが、例の高層マンションなのかな。
10階以上でも窓が全開にできるのが、中国らしいといえば中国らしい。
こちら(↓右)は、ライトアップされた建物が並ぶ中央大街。この通りは、もともとはロシア語で「キタイスカヤ」と呼ばれており、御影石の石畳は歩行者天国になっている。
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ms-d1-3.jpg夕食後に時間があったので、スーパーを覗いてみた。
何か面白いものがないかなー?と思っていたら、牛乳とかコーヒー牛乳とか、そういう飲み物がビニール?の袋詰めで売られていたのを発見(←)。エコなのか?物流コストがかからないからなのか?それとも中国の人たちは、みんな「my水筒」を持ち歩いているみたいだったから、こういう袋詰めの使い勝手がよいのだろうか?日本では見ない形だったので、なかなか興味深かった。

写真は撮らなかったけれど、そのほかスーパーに並んでいたもので印象に残ったのはトイレットペーパー。ロール状ではなく、紙ナプキンのように折りたたまれた状態で大量に売られていた。
中国では、コンビニはもちろん、屋台ですらもキャッシュレス決済が進んでいて(モバイル端末でQRコードでピッ!で完了)、発展度合いで日本は負けているなぁと思ったけれど、トイレやトイレットペーパーの質では日本の圧勝(笑)。

そのほかのものは、日本とほぼほぼ変わらず。
菓子パンコーナーなんかは、「ランチパック」だとか「薄皮ミニあんパン」とか、ブランド・商品名は違えど、馴染みのある商品がたくさんあった。

初日は移動のみで終了。
明日2日目以降から、観光&見学がスタートです。

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2017-09