Small Talk 2

旅の記録 + ちょこっと日常のあれこれ を綴ります

グアテマラほか中米旅行:6日目 

2015/04/30
Thu. 22:56

【グアテマラほか中米旅行 : 6日目】
(フローレス → ティカル → フローレス)


朝食後、フローレスのホテルを出発する頃には、昨晩からの雨はずいぶん小雨になってきた。
地面はぐちゅぐちゅなんだろうけれど、雨は降ったり止んだりの曇り空、降っても帽子をかぶっていれば傘がいらないくらいのお天気。
フローレスからティカル遺跡の入り口のゲートまでは、約1時間ほど。
といっても、世界複合遺産(文化遺産でもあるとともに自然遺産でもある)ティカルは、広大な敷地面積を有し(遺跡周辺の熱帯雨林の生態系も保護されている)、このゲートからまだ30分くらい走ったところにようやくビジターセンターなどが建つエリアに到着する。
まずは、ティカル遺跡の模型がお出迎え。
マヤの古代都市ティカルは、紀元前600年ごろには人が住み始めていたといい、メキシコのテオティワカンや、グアテマラ・シティで観光したカミナル・フユなどと交易をおこないながら、大都市に発展。
古典期後期(8世紀ごろ)に最盛期を迎え、その当時は5~8万人もの人々がここで暮らしていたのだという。
その後、他のマヤの古代都市と同様、9世紀には急速に衰えてしまい(その原因は不明だが、大干ばつによる食糧不足との説が有力のようだ)、ジャングルの中に埋もれていったが、17世紀末にスペイン人宣教師が偶然に発見し、その存在が知られるようになり、1950年代から本格的な発掘調査が始まり、今日に至っている。
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さて、徒歩にて観光開始。
少し歩くと、池があるが、ここは人工的に造られた貯水池だったとのこと。発掘調査によって、湖面がセメントで固められていることがわかっている。
こちら(↓左)は、マヤの“聖なる樹”、セイバの大木
天に向かってまっすぐに伸び、高さ数十メートルにもなるセイバは、神々の住む天上の世界とつながっており、この世界を守ってくれていると考えられたのだという。強烈な太陽の日差しを遮る木陰を作ってもくれたため、この木の周りに人々が自然に集まってきたとも言われている。
セイバの大木を過ぎると、コンプレックスQ(↓右)という小規模な神殿や石碑が残っているエリアに到着。
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ジャングルの中から大声で吠えるホエザルの声をBGMに(姿は見えず。クモザルはちらっと見えた)、さらに道を進むと、小さな丘(↓)が。この下には間違いなく神殿(ピラミッド)が埋もれているのだとか。
ティカルには至るところに、こんな未発掘の丘があった。発掘したい考古学者と、自然を守るべきとの生物学者の意見は常に平行線なのだとか。
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さらに進むと、Ⅰ号神殿(大いなるジャガーの神殿)(→)の後ろ姿がどんどん大きく見えてきた(手前の動物はおそらくアナグマの一種)。
テンションが上がるー
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このⅠ号神殿は、向かい合って建つⅡ号神殿は、上まで上ることができるので、早速レッツゴー!
マヤのピラミッドを上るのは、階段の幅が狭くて勾配も急で大変というイメージがあるけれど(昔、メキシコのチチェン・イツァのククルカンのピラミッドとか、ウシュマルの魔法使いのピラミッドを上った時、下りがめちゃめちゃ怖かったことをはっきり覚えている・・・今はどちらも上れないらしいが)、ここは超楽勝、なんと観光客用に、木製の階段が脇に造られていた!(↓左)
こちら(↓右)が、Ⅱ号神殿の上から見たグラン・プラザと高さ47mを誇るⅠ号神殿
写真の正面、Ⅰ号神殿があるのがグラン・プラザの東側で、左手の建造物の並ぶエリアは北アクロポリスと言われている。
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北アクロポリスの向かいには、宮殿の跡などが残る中央アクロポリス(↓)があり、こちらも階段に上って少し高い所に行けたので、そこから少し遠くに見えるⅤ号神殿をパチリ(↓右)。
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gtml6-10.jpgこちら(←)は、中央アクロポリスから見たⅡ号神殿
こちらは高さ38m。3段目の基台部分に、観光客がたくさんいるのが見えます。
gtml6-11.jpgこちら(←)は、グラン・プラザの南側にある、Ⅴ号神殿
Ⅴ号神殿は北向きに建っている神殿で、マヤの神殿の中でも珍しいものなのだとか。現地ガイドいわく、雨の神チャックに捧げられたものらしい。

Ⅴ号神殿から西の方へ少し歩くと、7つの神殿の広場(↓左)に出る。広場の東側に小さな神殿が7つ並んでいて、北側には球戯場、南側には宮殿があったとのこと。
現存する建造物は古典期後期のものだが、広場自体はそれより前の時代にあったのだという。

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gtml6-14.jpg7つの神殿の広場の隣は、”失われた世界”と呼ばれるエリア。
先古典期の建造物が残っているエリアで、こちら(↑)は大神殿。天体観測に用いられたのだという。
このエリアには、タルー・タブレロ様式と呼ばれるテオティワカン発祥の建築様式の建造物が見られる。

この後、いよいよティカルのハイライト、Ⅳ号神殿(←)へ。
ティカルの中心部から少し離れたところにあり、ティカルで最も高く高さ70mを誇る。
こちらも脇に木製の階段があり、登頂できるようになっているので、再びレッツ・ゴー!

こちら(↓)が、Ⅳ号神殿からのティカル、グラン・プラザ方面の眺め
ジャングルの中にⅠ号神殿(中央の奥)、Ⅱ号神殿(中央の手前)、Ⅲ号神殿(右の飾り屋根部分修復中のもの)がよく見える。
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もっと晴れていたらなぁ・・・とも思ったけれど、曇天は曇天で神秘的な感じもするし、昨晩の雨の後、これでピーカンになったりすると気温は40℃近くになって、蒸してサウナ状態になることが想像できるので、広いティカルの遺跡内を歩いての観光には、かえってこの曇天がラッキーだったのかもしれない

gtml6-16.jpg これでティカル遺跡の観光は終了。
ビジターセンターがあるエリアに戻り、レストランで昼食。
メニューはチキンの炭火焼(→)、こういう超・観光地内のレストランっていまひとつのところが多い印象だけど、ここはなかなか美味しかった。

昼食後は、博物館の見学。
しかーし、ティカル博物館は改装中とのことでクローズ
博物館の展示品のごく一部が、日本のJICAが協力しているティカル文化遺跡保存センターで展示されているとのことなので、そこを訪れるも、規模が小さくいまひとつ。
グアテマラ・シティの考古学民族学博物館でもティカルから出土した翡翠の工芸品も見られなかったし、少しアンラッキーだったなぁ・・・

ティカルを後にして、フローレスに戻る。
フローレスは、ペテン・イツァ湖畔の町で、フローレス島とレジェノ橋でつながっているサンタ・エレーナ地区の2つの地区から成る町。
そのペテン・イツァ湖はここのところ水位が上昇していて、島をくるっと一周する道路の一部が冠水してしまい、通行できなくなっていた(↓左)。
島にはこじゃれたカフェなどもあり、天気がよければ湖畔でのんびりするのもステキだったのかもしれない・・・この空と湖の色では、そういう気にもなれなかったけれど・・・
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6日目は以上で終了。
実はこの日の夕方、この湖で死体が上がったらしく、パトカーや警官がたくさん出動するという事件が発生。いやぁ、びっくりしました・・・
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グアテマラほか中米旅行:5日目 

2015/04/29
Wed. 22:55

【グアテマラほか中米旅行 : 5日目)】
(リオ・オンド → キリグア →フローレス)


リオ・オンドからバスで1時間、キリグア遺跡に到着。
キリグアはもともとはコパンの支配下にあったが、”カック・ティリウ(嵐の空)”王の時代にモタグア川の覇権を巡りコパンと争い、勝利して8世紀後半に最盛期を迎えたマヤの都市。
モタグア川近郊ではヒスイが採れ、これを水路を使って各地へ運び交易をしており、キリグアにも大きな利益をもたらしたのだという。

キリグア遺跡の見どころは、その最盛期に造られた石碑(ステラ)と、獣形神
ステラE(↓左)は、高さ約11mで、コロンブス以前の南北アメリカ大陸における最も背の高い石碑として知られている。
キリグアのステラはコパンの影響を受け、それを独自に発展させたものとされ、ステラD(↓中央)はマヤの神話が刻まれており、その芸術性の高さがうかがわれる。
斜格子紋状の碑文のあるステラH(↓右)はコパンの石碑を真似たものだと言われている。

ステラ(石碑)E :771年建立

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ステラD : 766年建立

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ステラH : 751年建立

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ステラJ(↓左、中央)には、738年にカック・ティリウ(嵐の空)王が、コパンの王18ウサギの斬首し王権を表すカウィールの笏を授かった、というマヤ文字が刻まれている。
ステラK(↓右)は、カック・ティリウ王の次の次の王、”ヒスイ空”王時代のもの。規模が小さく、彫りも浅く、キリグアの力が衰退してきたことが如実に現れている。なお、このヒスイ空の時代、810年以降に造られた石碑や獣形神などは発見されておらず、キリグアはこのころに棄てられてしまったのではないかと考えられているとのこと。
ステラ(石碑)J :756年建立

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コパンの王、"18ウサギ”を示す
マヤ文字

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ステラ(石碑)K :805年建立

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gtml5-7P.jpg獣形神P : 795年建立
カック・ティリウ王の次の王、”空シュル”王が造らせたもので、表面にはびっしりマヤ文字や蛇など神像が刻まれている。
gtml5-8.jpg獣形神Pに付随する祭壇
球戯場の近くにあるため、これは生贄を奉げる祭壇だったのでは?と現地ガイドが説明していた。
こちらもびっしりとマヤ文字などが刻まれているが、あまりに複雑で解読はできていないのだとか。


石碑が点在する大広場(↓左)を歩くと、アクロポリスに到着。コパンと比べるとかなり小規模。
広場の一角では、マヤの儀式らしきものをやっていた(↓右)。マヤの人々は火や煙を神聖なものとして崇めていて、タバコの習慣もここから生まれたという説もあるのだとか。
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以上でキリグアの観光は終了。
このキリグアの遺跡の周囲は、一面バナナ畑が広がっている(↓)。「チキータ」ブランドのバナナの畑なのだという。
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gtml5-13.jpg昼食は、カリブ海沿岸地域の伝統的なガリフナ料理で、タパードスと呼ばれるココナッツ風味の魚介のスープ
スープの横の魚はモハラという白身の魚で、もともとはスープの中に入っていたもの。
魚介のだしが効いていて、ココナッツたっぷり、ちょっとピリッとする味のこのスープはとても美味しかった
ちなみに”ガリフナ”とは、カリブ海沿岸にすむ黒人の民族の名称で、もともとはアフリカから奴隷として連れて来られた人々の子孫なのだという。

昼食の後は、またバスに乗り、本日の宿泊先であるフローレスまでひた走る。
途中、かなりテキトーだったのだが、果物を持ちこんでいないかの検査(フルーツ検疫)があった。
コーヒーやバナナなど農業が盛んな国なので、果物に付いている害虫などが持ち込まれないようチェックしているのだとか。とはいえ、バスを止めさせて、現地ガイドに「果物持ちこんでいませんね?」と聞いているだけのようだったので、効果がある課はかなり疑問(笑)。

4時間半ほどかかって、フローレスに到着。
夕方から雨が降り始め、夜は雷が鳴り、強風も吹く、まるで嵐のような空模様
明日はマヤ遺跡のハイライト、ティカルの観光なのに。。。雨は嫌だなぁ

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グアテマラほか中米旅行:4日目 

2015/04/28
Tue. 22:54

【グアテマラほか中米旅行 : 4日目】
(グアテマラ・シティ → コパン(ホンジュラス) → リオ・オンド)


朝の7時にグアテマラ・シティを出発、バスに乗って一路、本日の観光地ホンジュラスのコパンへ。
gtml4-1.jpgかなり距離があることに加え、あまり整備されていない道路を走るところもあり、2度のトイレ休憩を挟んで約5時間かかってようやくホンジュラスの国境に到着。ホンジュラスからグアテマラの入国はユルユルで、ワタクシたち団体客はバスの中からパスポートと税関申告書をガイドさんに渡すだけで済んでしまった(ホンジュラスはコパンの観光のみ、当日入国・当日出国だから簡易的な手続きで良いのかもしれない)。

国境から40分ほど走り、コパン遺跡の玄関口、コパン・ルイナスという小さな町に到着。
朝食後、バスに乗ること以外何もしていないけれど、昼食をいただく。メニューは、ホンジュラス風のバーベキュー、ビーフ、チキンと野菜の串焼きピンチョス(→)だった。

コパンは7~8世紀に最も栄えたマヤの大都市
現在わかっているマヤの都市遺跡では最南端に位置し、マヤ文明の南東地域の政治・経済・文化の中心地だったと言われている。
そうそう、マヤの歴史は、現在の学説では先古典期(紀元前2500年~紀元後250年)、古典期(250年~900年ごろ)、後古典期(900年ごろ~1500年ごろ)の3つの時代に分類されていて、このコパン、明日以降に訪れるキリグアやティカルも、古典期の代表的な都市。
gtml4-2.jpg快晴の今日は、ぐんぐん気温が上がり、外の気温は約38℃、体感温度は約40℃!!!
ということで、暑さを避けるべく、コパン遺跡の観光は石彫博物館からスタート。
博物館に入ると、まず目に飛び込んでくるのは、原寸大で復元されたロサリラ神殿(←)。
ロサリラ神殿は、426年に創設されたコパン王朝の初代国王、ヤッシュ・クック・モのために造られたとされる。現在は西広場の東側にある神殿16に埋まったままで、この地には古い時代の神殿が何層にも重なっていることが発見されているのだとか。他のマヤ遺跡同様、神殿や石碑など建造物は、すべて神聖な色、赤で彩色されていたとされる。

神殿16の近くにあった、石碑P(↓左)と、祭壇Q(↓右)。
この祭壇Qは、コパン王朝の歴代の16人の王の名前と姿が彫られている有名な祭壇。すでに衰退していた16代の王が自らの正統性を示すために造ったものとされている。
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gtml4-5.jpggtml4-6.jpg博物館には遺跡から出土されたさまざまな石彫が展示されている。
左はトウモロコシの神様の像、その隣はオルメカ文明の影響を受けたことがわかる頭部の像。

↓は、寝台兼(?)玉座。
その隣のものも別の玉座の一部なのだけれど、現地ガイド曰く、この石彫にあるように、マヤの身分の高い人たちの間では”寄り目・出っ歯・平らな額”が美しい顔であるとされていて、幼い頃にこのような顔になるよう、鼻先に何かをぶら下げてわざと寄り目にしたり、額を平らにつぶしたり、ということがなされていたのだという。


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gtml4-9.jpg博物館を見学した後は、いよいよ猛暑の中、遺跡の観光。
入口にはこのような地図があり、コパン遺跡の全体像がわかるようになっている。

1 : グランプラザ
2 : 球戯場
3 : 神聖文字の階段
4 : ジャガーの広場(東広場)
5 : ジャガーの神殿
6 : ロサリラ神殿(が埋まっているところ)
7 : 西広場
8 : ラス・セプルトゥーラス

ワタクシたちは、この地図の順番とは逆回りで観光した。
こちら(↓左)は、ロサリラ神殿が埋まっているとされている西広場と神殿16
そのお隣(↓右)は、ラス・セプルトゥーラスと呼ばれる貴族たちの住居跡。通常、マヤの家屋の屋根は茅葺きであったが、ここには石造りの屋根の建物もあったのだという。
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こちら(↓左)は、ジャガーの広場と呼ばれる東広場。
この広場には一般庶民は入ることが許されず、王や貴族たちが集まる場所だったとのこと。
広場の西側に、このような(↓右)、まるで踊っているようなジャガーの石彫が残っている。なんかちょっと、ユルキャラっぽいジャガーに見えるのはワタクシだけ?!
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gtml4-14.jpgこちら(←)はコパンのハイライト、神聖文字の階段
この神聖文字の階段は、コパンの最盛期の王、第13代のワシャクラフン・ウバフ・カウィル王、通称”18ウサギ”が造り、第15代の王が追加したもので、2000を超えるブロック1つに1つのマヤ文字(象形文字)で、コパン王朝の王朝史が描かれていたのだとか。とはいえ、この階段を組み立て直した時代にはマヤ文字の解読が進んでいなかったため、デタラメに並べ替えられてしまい、王朝史の全貌解明はできていない。

この第13代の王である”18ウサギ”は、王朝の最盛期に君臨した王であり、この神聖文字の階段のほか、ここコパン遺跡に残る球戯場やその他の石碑なども大半が彼の時代に造られたものなのだが、725年、当時コパンの配下にあったキリグアに敗れ、斬首されるという非業の死を遂げている。キリグアに敗れた後、コパンは急速に衰退し、他の古典期に栄えたマヤ文明の諸都市と同様、9世紀には滅びてしまったとのこと。

こちら(↓左)は、マヤ古典期の遺跡の中で最も美しいと言われる球戯場の跡。
マヤの球技はスポーツというよりも儀式の一つで、5人1組で重いボールを高い位置にあるマーカーに当てることを競ったもの。この場所にあるマーカーはレプリカで、オリジナルは石彫博物館内に保管、展示されていた(↓右)。
敗者(勝者との説もある)は生贄にされたとも言われている。
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こちらの石碑の前にある丸い石は、生贄を奉げるための祭壇(↓左)。上部のくぼみに心臓が置かれ、血が溝を流れ落ちたのだという。
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球戯場の向こうに広がっているのは、グラン・プラザと呼ばれる広場。ここにはたくさんの石碑(ステラ)が点在しており、そのうちの一つ、石碑B(↑右)は非常に凝った装飾がされていた。

gtml4-19.jpgグラン・プラザからは遺跡の出入口に向かう途中には、カラフルなコンゴウインコがたくさん飼育されていた(←)。
コンゴウインコは、その赤が太陽を、青が金星を、黄が月を表す神聖な鳥としてマヤ文字にも刻まれており、いにしえよりこの地の人々との関係が深かったことがうかがわれる。

以上でコパン遺跡の観光は終了。
ワタクシたちが訪れた4月末は乾季の終わりで、1年で最も気温が上がる時期でもあり、観光するには暑すぎた・・・(現地ガイドいわく、気温が上がりきる前の午前中がオススメとのこと)。

17時前にコパンを出発、再びあまり整備されていない道を走ること2時間強、宿泊先のホテルのあるグアテマラのリオ・オンドという国道沿いの町(村?)に到着。
移動の長い、長~い1日でした。

今回のツアーは、ずーっと通しで1人のドライバーさんが運転しっぱなし。大変だっただろうなぁ、どうもありがとう♪

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グアテマラほか中米旅行:3日目 

2015/04/27
Mon. 22:52

【グアテマラほか中米旅行 : 3日目】
グアテマラ・シティ


今日はグアテマラ・シティ内の観光
最初に訪れたのは、市内にあるカミナル・フユ遺跡。カミナル・フユとは、キチェ語で”死の丘”という意味なのだそう。
カミナル・フユ遺跡は、マヤ文明初期の遺跡で、紀元前4世紀から6世紀にかけて栄えた古代都市の遺構とのこと。
遺跡といってもこじんまりとした公園のようなところ(↓)で、現地ガイドは”グアテマラ・シティの新宿御苑”と呼んでいた。
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小高い丘の下には、アクロポリス(↓左)が眠っている。このアクロポリスには石ではなく土でできた“モンゴイ”と呼ばれる神殿(ピラミッド)が残されており、逆V字型が特徴のマヤ・アーチも土でできたものが残っている(↓右)。
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gtml3-5.jpg遺跡内には小さな博物館があり、そこでカミナル・フユの模型(←)を見ることができた。当時は近くに湖があり、水路が引かれていたのだという。また、発掘調査の結果、この古代都市はテオティワカンと交易をおこなっていたことが判明しているのだとか。
グアテマラ・シティには、“石のマヤ”以前のこのような”土のマヤ”の遺構、モンゴイが200以上もあったが、アンティグアが地震で崩壊して遷都されて以降の都市開発で大半がなくなってしまい、現在では33個を残すのみとなっているらしい。


今日、グアテマラ市内で大規模なデモがおこなわれるという情報はデマだったらしく、何事もない静かな月曜日。
デモがあったならば人で埋め尽くされたであろう中央公園の向かいにあるカテドラル(↓左)、文化宮殿(↓右)をちらりと観光。ピンク色のタベブイアの花がキレイでした。
はためくグアテマラの国旗の両端の青は太平洋とカリブ海を、中央の白は平和を表しているという。白地部には国鳥であるケツァル、月桂樹と銃剣と刀があしらわれた紋章が描かれている。
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デモがあるかもしれないとのことで、初日に市内観光の目玉、国立考古学民族学博物館の観光を済ませていたため、時間があり余ってしまい、急遽、通称アナ・カフェ、Association National del Cafeというグアテマラのコーヒー協会(→)を訪れた。
ここではグアテマラのコーヒーの鑑定や、鑑定人の養成などをおこなっているほか、地味ながらもコーヒーも販売されていた。ここで売っているものの品質は間違いないだろうということで、アンティグア1ポンド(50ケツァル:約850円)を2袋購入。ありがたいことにクレジットカードでの支払いもOK、手渡し用の紙袋もしっかりしたものを付けてくれた(↓)。
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gtml3-10.jpgグアテマラには8つの産地別のコーヒー銘柄(ブランド?)があり、最も有名なものがアンティグア、アティトラン湖畔のアティトランサンマルコス、標高が高く乾燥した場所にあるウエウエテナンゴ、最も新しいブランドのアカテナンゴフライハネス、古くから栽培の始まったコバンオリエンテ

こちらは、昨日チチカステナンゴの露店で購入した、刺繍のたくさん入ったポンチョ(→)。
実はこの日、これを着て観光をしたのだけれど、布地が厚手でかなり暑かった
ここ以外でこれを着る機会はないと思うので、これをどうやってリメイクなりして活用するか、考えなくっちゃー。

観光後、スーパーマーケット(ウォルマート)へ繰り出し、ばらまき用の土産などを調達。
明日は朝早くグアテマラ・シティを出発し、ホンジュラスのコパン遺跡を訪れます。

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グアテマラほか中米旅行:2日目 

2015/04/26
Sun. 22:50

【グアテマラほか中米旅行 : 2日目】
(パナハッチェル → チチカステナンゴ → グアテマラ・シティ)


宿泊したパナハッチェルは、アティトラン湖畔の観光拠点となる町ではあるのだけれど、今回のツアーでは宿泊のみ。
バス移動の途中、アティトラン湖の展望台で写真ストップ。
しかーし、晴れてはいるものの、あいにくもやがかかっていて(→)、まったく景色を楽しむことができず

アティトラン湖は、8500年前の火山の噴火によってできたカルデラ湖。標高1500mのところにあり、東西20km、南北10kmに広がり、水深は最も深いところで320mになるという。
周囲には、3,000mを超えるアティトラン火山、サン・ペドロ火山、トリマン火山などがある。
湖畔にはパナハッチェルの他、12聖人の名前が付けられた村が点在、湖の南側には主にツトゥヒル族、北側にはカクチケル族が、それぞれの伝統文化を保ったまま暮らしている。湖を一周する道路が整備されていないため、移動はボートが中心。
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gtml2-2.jpg売店の写真を1枚パチリ。
天気が良ければ、こんな(←)風景が見られたらしい。。。

gtml2-3.jpgバスは山道を走り、ソロラという町でちょっとだけ休憩。
こちらのカラフルな建物(←)は、市庁舎。スペインの街づくりの典型で、この前には中央公園がある

gtml2-10.jpgこのソロラという町は標高2100mと高地にあり気温が低いため、マヤの民族衣装では珍しく、ウール(羊毛)を使ったものになっていて、女性だけでなく男性も伝統的な民族衣装を着ていることでも知られている。
男性の民族衣装(←。グアテマラ・シティの博物館で撮影したもの)の特徴は、茶色に白の格子柄の入ったヘルガと呼ばれる腰巻き。


さらに1時間半ほど走り、本日の観光地、チチカカステナンゴの町に到着。

まずは、町の中心にあるサント・トーマス教会(↓左)を訪れた。この教会は、マヤの先住民のキチェ族が、もともと神聖な場所としていたところに、1540年ごろスペイン人によって建てられたもの。
17世紀に、この教会の一角で、キチェ族に伝わるマヤの神話を綴った『ポポル・ヴフ』が発見されている。『ポボル・ヴフ』はアルファベットを使用して書かれているものの、当時のキチェ族の人々は、キリスト教に改宗するふりをして、マヤの宗教を守ろうとしたのだろうか。
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チチカテスナンゴは、400年以上前から、毎週木曜日と日曜日に大規模な露店市、インディヘナ市が開かれることで知られている。
今日はちょうど日曜日。教会前の広場にびっしりと露店が並び、まるで迷路のよう。しかも、場所によっては人がものすごく多くて歩きづらく、途中ツアーのメンバーがはぐれてしまうというハプニングも。。。。
露店は、民芸品を売る店(↑右)が多かったけれど、トルティーヤを作るときにトウモロコシの皮をむきやすくする石灰岩なども売られていた。
自由時間に露店市をぶらぶらし、刺繍のいっぱい入ったポンチョ(?)を購入。女性の民族衣装は、帽子やスカートの柄で出身地がわかるのだという。

体育館のようなところで開かれている野菜市場を観光(↓)。
野菜も色とりどり、買い物に来ている女性たちの民族衣装もカラフル。ここでしか見られない、なかなか面白い光景だった。
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ランチは、チュチートス(トウモロコシの粉を練って葉で包みちまきのように蒸したもの)、チレレジェーノス(パプリカの肉詰め)など、伝統料理をいただいた(↓左)。
グアテマラの代表的なビールは、Gallo(ガジョ)という、すっきり、あっさり系の(薄い)ビール(↓右)。暑い国は、あっさり系のビールが多いんだろうな。
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チチカテスナンゴは以上で終了、再びバスに乗り、山道を下ること約3時間半、グアテマラ・シティに戻った。
明日はグアテマラ・シティの市内観光の予定。さて、予定されていた大規模デモは行われるのでしょうか!?

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グアテマラほか中米旅行:初日(その2) 

2015/04/25
Sat. 22:48

【グアテマラほか中米旅行 : 初日(その2)】
(グアテマラ・シティ → アンティグア → パナハッチェル)


グアテマラ・シティからバスに乗り、1時間ちょっとで、次の観光地アンティグアに到着。
ここアンティグアは、植民地時代の1543年から1773年の大地震があるまでグアテマラの首都であったところ。この1773年の大地震で多くの建物が崩壊してしまい、この地の地盤は不安定なので首都にふさわしくないとされ、今のグアテマラ・シティが新たな首都に選ばれたのだという。
地震で崩壊した教会や修道院、コロニアル建築や敷石の道で特徴づけられるこのアンティグアの美しい町並みは、世界遺産にも登録されている。

アンティグアの町を一望できる十字架の丘へ。
町の後ろに見えるアグア火山は、高さ約3700m。日本人からすると、まさにグアテマラの富士山
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gtml1-9.jpggtml1-10.jpgアンティグアの町は徒歩での観光。
ちなみにこの町には一つも信号機がないらしい。

最初に訪れたのは、カプチナス修道院
先の地震で崩壊し(この地震は直下型の大地震で、多くの建物はわずか2秒ほどで崩壊してしまったとのこと)、現在は修道院としては機能しておらず、アンティグアにある他の廃墟と同様、公園施設になっている。中庭でパーティーなどもおこなわれているようだった。

かつては修道尼僧が修行をしたと言われる小部屋が残っていて(↓)、中に入ることができた。そうそう、ここの修道尼僧たちはこげ茶色の修道福を着ていたために、“カプチナス修道院”という名称(通称?)になったのだとか。
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散策を続け、サンタ・クララ修道院(これも廃墟)へ。その前には、公共洗濯場があった(↓左)。午前中には大量の洗濯物を持った人々が見られるらしいのだけれど、あいにく訪れたのが午後だったので、その光景を目にすることはできなかった。
↓右は、明治時代の写真家:屋須弘平も撮影したサン・ペドロ教会。屋須弘平は、メキシコの天文観測隊の通訳を引き受けたことがきっかけでメキシコに渡り、その後アンティグアに定住して写真館を開いた人物。
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gtml1-15.jpgこちら(←)は、カテドラル。アンティグアの守護神、サンティアゴが祀られている。

そうそう、このアンティグアの町には、スペイン語学校がたくさんある。午前中4時間のマンツーマン形式のレッスンで月~金まで1週間、安いところでは70米ドルくらいで受講できるらしい。アンティグアは治安が良い町でもあるので、バックパッカーがここでスペイン語を学び、その後中南米諸国に旅立っていく、ということも多いのだとか。

カテドラルの前は中央公園(スペインの街づくりはワンパターン。まずカテドラル、その前に中央公園があり、その周りに市庁舎がある)。この中央公園にある噴水(↓左)は、ちょっと変わっていて、人魚の乳房から水が流れていた。
中央公園に面している通りには、町のシンボル時計台がある。もともとは、修道女たちが姿を見られないように教会に行くために渡した橋だったらしい。
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こちら(↓)は、メルセー教会
中庭には中米で最大規模の噴水があり、テラスからはアグア火山、フエゴ火山、アカテナンゴ火山などアンティグアを囲む火山も見える。
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少し自由時間があり、アンティグアの中央公園付近を散策。
コーヒーが有名な町だけあって、目抜き通りにはカフェがたくさんあった。
グアテマラ・アンティグアのコーヒー豆が1ポンド(453g)、60~70ケツァル(1ケツァル=約16円)で売られていた。日本だと、某有名コーヒーチェーンの同銘柄は250gで1,240円するので、だいたい半額というところか。
とはいえ、現地ガイド曰く、グアテマラの人々の平均月収は日本円で3万円程度とのこと。貧富の差が激しく、一部の人たちが平均を押し上げていることを考えると、この平均よりも低い人のほうが多いことが推察される。
首都のグアテマラ・シティでスーパーマーケット(中流層以上が行くところ)も覗いてみたけれど、スナック菓子やチョコレートなどの値段は日本とあまり変わらない感じで、物価水準と賃金水準がぜんぜん釣り合っていない感じがした。

gtml1-20.jpg以上でアンティグアの観光終了。

徒歩での観光を終え、大型の車が走れる道路に出ると、グアテマラ名物のチキンバス(→)と遭遇。アメリカのスクールバスを改造したもので、色とりどり、派手にペイントされている。今回の旅はパッケージツアーなので乗る機会はなかったけれど、ちょっと乗ってみたい気も(ただし、スリとかすごそうなので、手ぶらで?!)

チキンバスではなく、旅行会社の用意した大型バスに乗って本日の宿泊地、パナハッチェルへ移動。山道を約3時間、1日が長かったので車中では爆睡。

アティトラン湖畔のホテルにチェックインし、夕食を摂って早めに就寝。はー、ほんと今日1日長かった~。

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グアテマラほか中米旅行:初日(その1) 

2015/04/25
Sat. 15:37

【グアテマラほか中米旅行 : 初日(その1)】
(羽田 → ロサンゼルス → グアテマラ・シティ


今年のゴールデン・ウィークの旅行は、10日間で中米のグアテマラ・ホンジュラスとベリーズを訪れるパッケージ・ツアーに参加した。
夫婦3組、姉妹1組、残りは一人参加という構成で、参加者は全員で15名。けっこうな金額のツアーだったので、参加者の年齢はワタクシから見ると全体的に高め(とはいえ、ゴールデン・ウィークということもあり、まだ務めている人が多く、旅行会社としては「比較的若い人が多い」というツアーになるらしい)。

出発は、羽田発の深夜便(DL636便)でまずはロサンゼルスへ、さらに乗り継いで、グアテマラの首都であるグアテマラ・シティへ。
約9時間後、現地時間では前日の19時ごろにLAに到着、4時間以上の待ち時間を経て、またもや深夜便(DL1393便)に乗る。着陸の際、濃霧が晴れるのを待つべく1時間ほど上空を旋回したため(幸い無事着陸できたのだけれど、霧が晴れない場合はお隣の国エルサルバドルのサンサルバドルに着陸することもあるのだという)、グアテマラ・シティに着いたのは、同日の朝8時前。体内時計はすでにぐちゃぐちゃ~。

グアテマラ・シティのホテルで朝食を済ませ、最初の観光地、国立考古学民族学博物館(→)へ。

当初の予定では、グアテマラ・シティは今日は素通りしてアンティグアに向かう予定だったのだけれど、この博物館を訪れる予定の4月27日に、市内で大統領辞任を求める大規模なデモが行われるかもしれない、そうなると観光が難しくなる、ということで、急遽予定変更があったもの。ちなみにこの日(4月25日)の午後にも、市内でデモが行われたとのことだった。

博物館に入ると、まずは企画展のコーナーがあり、ワタクシたちが訪れた時には、音楽と踊りに関する展示がなされていた。
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gtml1-2.jpg常設展は、民族学の展示からスタート。
グアテマラは中米諸国の中で最も先住民が多く住んでいる国で(人口比で約40%)、憲法上保護されている言語だけでも24種類(うちマヤ系先住民の言語21。公用語はスペイン語)もあるという。この展示コーナーでは、いくつかの代表的な伝統衣装が紹介されていた。
こちら(←)は、“ウイピル”と呼ばれる女性用のブラウス。刺繍の模様や使用する生地などに民族の特色が表れるのだという。これら伝統衣装は、今でも日常的に着られており(主に女性が着ている。男性はほとんど着ないらしい)、女の子は5歳くらいから織物を学ぶのだという。
gtml1-3.jpg gtml1-4.jpg続いては、考古学分野の展示へ。
噴水を囲む中庭に沿った回廊に、グアテマラ各地のマヤ遺跡から出土した石碑(ステラ)などが多数展示されていた。
石碑の多くにはヒビが入っているのだが(←←)、これらは自然にできたものではなく、盗掘し密輸出するために、人為的に切断されたものなのだとか。
石碑は、王の即位時に権力を誇示するため王の姿を彫ったもの、戦勝記念のものが多いが、こちら(←)の石碑には女性が彫られていて、大変珍しいものなのだという。

↓左の模型は、ピエドラス・ネグラスという遺跡のもの。マヤ遺跡の神殿など建造物は、赤く彩色されていたとのこと。

その隣の玉座も、ピエドラス・ネグラスから出土したもので、”支配者7”の玉座
この写真ではわかりづらいけれど、レリーフも精巧で、また正面から見ると人の顔に見えるようデザインされていて、とても芸術性の高いものなのだという。

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このピエドラス・ネグラス遺跡は、ここから出土した保存状態のよい石碑などから、ロシア系の考古学者タチアナ・プロスクリアコフ(1909-1985)が、石碑に刻まれたマヤ文字が単に暦を表しているだけでなく、王の名前や出来事=歴史=を表していることを発見したことでも知られている。なお、このタチアナさんは、生前の本人の意思を尊重し、このピエドラス・ネグラス遺跡に埋葬されているのだという。

こちらはティカル遺跡の模型
この博物館には、ティカル遺跡の王の墓から出土した翡翠の工芸品なども展示されていたのだけれど、土曜日はその特別展示室が閉まっているとのこと、それらを見ることができなかった。うーん、残念
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以上で、博物館の観光は終了。首都にある国立博物館にしては、かなりこじんまりとしていた。

(その2)へ続く。

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asahi2015.jpg今年もやってきました、アサヒビールの株主優待
昨年までの“株主様限定特製ビール”から、”株主様限定プレミアムビール”にグレードアップ(?)。

今回のビールの特徴は、”麦芽あじわい仕込み”という方法を採用し、アルコール度数、原麦汁エキス濃度、苦味価、うまみ成分を最高レベルに引き上げた、麦芽100%ビール、とのこと。

さっそく1本、ぷはーっと飲んでみたところ、かなり濃いめというか、黒ビールではないけれど黒ビールっぽい深み(?)のある味。アルコール度数も高い。
すっきり系ではないので、気温が高くない時に適したビールかも。

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botticelli2015.jpgBunkamuraザ・ミュージアムで『ボッティチェリとルネサンス フィレンツェの富と美』を観てきた。

この展覧会は次のような構成になっていた。

序章 富の源泉:フィオリーノ金貨

第1章 ボッティチェリの時代のフィレンツェ
金融業、商業の栄えたフィレンツェで使用されていた貴重品入れ(ポータブル)、貨幣経済の広まりに伴って、教会が貧困者救済のためその必要性を認めたという“公益質屋”の金庫、南京錠と鍵、為替手形などが展示されていた。
印象に残っているのは、ロフェンツォ・メディチの息子のために数学者が書いたという算術書(算数の教科書)。カラーで見やすく、メディチ家の活動が例題になっているようで、もっと他のページも見てみたかった。

第2章 旅と交易:拡大する世界
大航海時代の前のヨーロッパの交易の中心地であったフィレンツェ。
交易に従事する裕福な人たちは、航海、旅の無事を祈って、大天使ラファエルと旅に出るトビアスを題材にした絵画を画家たちに描かせたのだという。ちなみに、宗教画の中で、トビアスはお守り(魔除け?)の魚を持っていて、大天使ラファエルと一緒に描かれるのが決まりのようなので、素人でも見分けがつけやすい。

第3章 富めるフィレンツェ
人々の贅沢を戒めるため、13世紀以降、フィレンツェでたびたび出されたという奢侈禁止令は、人々の衣服や装飾品だけでなく、婚礼や葬儀などについても節制を求める法令だったのだとか。
結婚の贈り物とされたカッソーネ(婚礼用の長持ち)に描かれた『聖母マリアの婚礼』『聖母マリアの埋葬』には、この奢侈禁止令に則ってちょっと地味目な衣服を身にまとった人々が描かれている部分、決まりを破ってゴージャスになっている部分、両方が描かれていてなかなか面白かった。

第4章 フィレンツェにおける愛と結婚
婚礼時の贈り物にされた象牙の鏡や、精巧な細工が施された象牙の櫛、出産祝いをのせる出産盆などが展示されていた。象牙の櫛はとても1本1本が細く、壊れることを恐れて一度も使わていないのだとか。

第5章 銀行家と芸術家
富を得たフィレンツェの銀行家や商人たちは、自身の名声を得るため、また富を芸術(美)に使うことに対しては庶民や教会からの反発も受けにくかったこともあり、次々に芸術家たちに制作の注文を出していった。
メディチ家の信頼を得たボッティチェリも、その恵まれた環境のもと、次々と名作を生み出していく。
ここでのハイライトは、ピアチェンツァ市立博物館からやってきた、『聖母子と洗礼者ヨハネ』、誕生したばかりのキリストが厩の中ででマリア&ヨセフ夫妻、ヨハネや天使たちに囲まれている『キリストの降臨』、病院の回廊に飾られていたという、横幅5メートルを超える大作『受胎告知』、ボッッティチェリの作品の中で最も有名な『ヴィーナスの誕生』からヴィーナスだけを切り出して描かれた『ヴィーナス』
聖母子と二人の天使を描いた絵も数点展示されていたのだけれど、注文者が異なるからなのだろうか、同じボッティチェリの作品といっても絵によって人物の顔の感じが全然違って興味深かった。

第6章 メディチ家の凋落とボッティチェリの変容
メディチ家没落後、サヴォナローラの影響を受けてボッティチェリの画風も暗く変わっていたとのこと。
サヴォナローラの時代に好まれた、テラコッタの浮彫の紋章なども展示されていた。


前述の『聖母子と洗礼者ヨハネ』をはじめ、フィレンツェのウフィツィ美術館や国立古文書図書館、イタリア国内外の美術館からもたくさん作品が来ていて、なかなか見応えがあった。
現代の大富豪たちにも、ぜひぜひ才能ある芸術家のパトロンになってもらいたいものです。

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2015-04